「近・現代文学研究会」  これまでの報告・2005年1〜7月 


  <第81回> 2005年1月 霜多正次「宣誓書」  
 

 一月二十七日、第八十一回「近・現代文学研究会」が民主主義文学会会議室でおこなわれ、八名が参加した。霜多正次「宣誓書」が取り上げられ、岩渕剛氏が研究会のために「霜多正次略譜」を用意し、(1)作品の背景、(2)作品について、(3)作者についてというレジュメにそって報告した。     
 (1)作中、圧巻といえるのは、「琉球政府」創立式典での謝花(じゃはな)立法院議員の宣誓拒否を描いた部分であるが、この部分は和文と英文六通ずつの宣誓書が実在し、宣誓書の「米国政府並びに」という文言について沖縄人民党の削除要求と文言削除後も宣誓書への署名拒否があった現実を背景としている。また、瀬長亀次郎立法院議員の式典における宣誓拒否というのも実際にあった話である。(2)「宣誓書」が立法院の天願(てんがん)事務局員の視点で書かれたことがこの作品を面白くしている。そしてそのことは、「上」は琉球政府伊江行政主席や立法院上原議長(そのうしろのアメリカ)から「下」はタクシー運転手や謝花議員と人民党の人たちの動きを見渡せるようにしている。作者の工夫をこの点にみることが重要であろう。「宣誓書」は一九五五年に『文学芸術』に発表された作品であり、沖縄の現実をサンフランシスコ講和条約が発効する直前の一九五二年四月一日で切り取って知らせたという意味で先駆的な作品にかぞえ得る。(3)作者は一九一三年沖縄県生れ。一九三九年東京帝大英文科卒業後、東京市教育局に就職。四〇年応召、ブーゲンビル島をへて四五年五月オーストラリア軍に投降、捕虜を体験。四六年、復員。四八年より新日本文学会事務局に勤務。五〇年退職し、五二年『文学芸術』創刊に参加。五三年沖縄に帰郷し、沖縄の全体像を掴みたいという動機をつよくし、五五年の「宣誓書」の後は『新日本文学』に長編「沖縄島」の連載をはじめた。一九六四年、新日本文学会を除籍された。
 討論ではつぎのようなことが話し合われた。作品は臨場感にあふれ、アメリカの沖縄統治の実体がみえてくる。しかし冒頭の長広舌はやや異様ではないか。日米講和条約第三条の説明はよいとしても、人々の怒りと深い悲しみというなら、それは描出されるべきではなかったかなどと話し合われた。
 
   (土屋俊郎)  
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  <第82回> 2005年3月 手塚英孝「父の上京」  
 

 第八十二回「近・現代文学研究会」は、三月二十四日、日本民主主義文学会の会議室で行われました。今回は手塚英孝の「父の上京」で、報告者は宮本阿伎氏。今回の参加者は、報告者を含めて、十一名でした。
 宮本氏は、この研究会のために、報告文と年譜を用意されて、概ね次のように報告されました。
 まず、なぜ手塚作品の中から、「父の上京」を取り上げたかということについては、(1)好きな作品であること、(2)一九四七年に発表されたこの作品は、手塚の戦後の出発を記念する作品であること、と述べられました。
 作品の評価については、(1)『小林多喜二全集』編纂をはじめた年に書かれたこの作品は、「死ぬ気で書く」という多喜二の言葉に直結している作品であり、自らの作家としての決意を「刻んだ」作品である。(2)「天皇制専制主義の非人間性、これと不屈にたたかった共産主義者の姿を正面から描いた」(佐藤静夫)戦後文学であり、多喜二の「党生活者」を引き継ごうとするモチーフから描かれた作品である等、報告されました。
 当日、参加していた『手塚英孝全集』の編集に関わった編集者からは、次のような意見、感想が出されました。
 この作品は、小林多喜二の「党生活者」との関係が大事で、多喜二の時代は、非合法時代で、党生活を描くことに、制約があったが、戦後になって、その辺のところを、十分に真実性をもって描いた作品である。
 手塚は、寡作な作家であったが、怠けていたわけではなく、慎重な性格で、表現に厳しい、つまり文学に対して非常に厳しい作家であった、等々の発言がありました。
 
   (井上通泰)  
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  <第83回> 2005年5月 松田解子「おりん口伝」  
 

 昨年十二月に九十九歳で亡くなった、松田解子さんの畢生の大作「おりん口伝」の正篇をとりあげ、江崎淳さんに報告していただいた。
 参加者七名。江崎さんは、現在「松田解子自選集全10巻」の編集にあたっており、それらは随時発刊される予定とのこと。「おりん口伝」は、戦後の民主主義文学の最高峰に位置する作品になっている。日露戦争を準備する日本の資本主義発達の歴史、その日本独特のおくれの中で、足尾暴動から片山潜の指導する東京市電のストライキにいたる時代を背景に、秋田の山奥の鉱山を舞台にして、その飯場に嫁いできた、おりんと鉱山労働者の群像を力強く描きだしている。おりんは、松田さんの母がモデルであり、その生きた時間軸をそのまま縦糸に設定し、おりんの体験したであろうことを口伝として想像力ゆたかにもりこんでいる。
 十二年あまりの松田さんの刻苦の研究がうかがえるが、松田さんはこれまで、小説は標準語で書くべきとの持論の作家であったが、おりんと地底に生きる群像を描き出そうとする時、土の香りのする方言を駆使されている。方言による会話の中にすじ運びや、印象的な場面が描写されている。のちに参加者の感想に出されたが、この方言の採用が詩人の素質ともあいまって、松田さんの文章文体への挑戦のようで、一読してとっつきにくいようではあっても、「CDなどで音読できたら、さらに味わいぶかいのではないか」「こころざしの高い作品に感銘を受けた」などなどの感想が出され、プロレタリア文学の直系のような、松田解子さんを追悼する一夜になった。
 
   (長谷川綾子)   
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  <第84回> 2005年7月  有吉佐和子 「非色」  
 

 第八十四回「近・現代文学研究会」は、七月二十一日、日本民主主義文学会の会議室で行われました。今回は有吉佐和子の長編「非色」で、報告者は堺田鶴子氏。参加者は報告者を含めて九名でした。
 堺氏は報告にあたって、有吉佐和子の年譜、アメリカ史年表、小説の舞台になったニューヨーク市の地図、アメリカ移民についての資料を用意し、報告をはじめられました。
 有吉は一九三一年生まれで、満州事変のあった年に生まれているが、父親が銀行員であった関係で、戦前、海外で生活し、いわゆる軍国主義教育を受けた少女ではなかった。彼女はカトリックの洗礼をを受けているが、東京女子大在学中には「多喜二・百合子研究会」にも参加し、卒業論文は「プロレタリア文学の研究」であった、等彼女が文壇にデビューするまでの経歴についても報告されました。
 作品「非色」は、戦後、アメリカの黒人兵と結婚した日本女性がアメリカに渡って、人種差別と生活苦の中を生き抜いていく小説で、作家は「問題は色ではない」、「アメリカの人種差別は階級闘争」(作品より)ととらえて描いているのであるが、最後、主人公がニグロの世界で生きていこうとする結末には苦悩を突き抜けた力強さが感じられる、と評価されました。
 参加者の中に、有吉佐和子と東京女子大の同窓生で、構内でよく見かけたが、「多喜二・百合子研究会」に参加していた等のことを知らず、深く接触する機会もなく過ぎたのは残念だった、等の話も出されました。
 有吉の文学とその作品については好意的な評価がほとんどで、彼女の早すぎる死(五十三歳)を惜しむ声が頻りでした。
 
  (井上通泰)   
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