28回大会への幹事会報告は、2019年7月号(6月8日発売)に掲載されます。
第20回以降の大会報告


 新しい時代に向かう文学運動の創出を
  ──日本民主主義文学会第27回大会への幹事会報告──
                             報告者 乙部宗徳


 第二十六回大会からの二年の間に、安倍政権は安全保障法制(戦争法)を強行成立させ、日本国憲法の平和的理念を踏みにじり、日本を海外で戦争する国へと変質させた。しかし、その安全保障法制の廃止を軸に、市民と野党の共闘がつくられ、安倍暴走政治と真正面から対決する、日本政治の新しい時代が始まっている。
 こうした状況のなかでひらかれる日本民主主義文学会第二十七回大会には、次の二つの役割がある。
 一つは、この二年間の日本文学の動向と民主主義文学の到達を踏まえて文学はどうあるべきかを問い、激動の時代にふさわしい言葉をどう生み出し、意欲的な創造、批評活動を繰り広げていくかの諸課題について考えることである。
 また、私たちの日本民主主義文学会の組織の減少傾向があらわれて、すでに二十年ほどになる。その間、経費削減等もふくめた経営改革により、会費収入や部数の減少を何とかカバーしてきたが、それも限界に近づいている。五十年を越えて続けてきた『民主文学』の月刊発行を今後も続けることができるか、文学会の組織を次代に引き継げるかの正念場を迎えている。この二年間の取り組みの教訓を踏まえ、運動の継続のための方途を見出すことが大会の第二の役割である。
 第二十七回大会が、この二つの役割を果たすものとなるために、全国の会員、準会員で真剣な討論をおこないたい。

一、社会と文学をめぐる状況

(1)新しい時代と文学の役割
 二十六回大会以降、日本社会は大きな政治的激動の時を迎えている。前大会の幹事会報告で、「新しい共同の芽も生んだ昨年末の総選挙結果は、変革の時代への移行の予兆を明確に感じさせるものであった」とのべていた情勢はさらに発展し、「新しい共同の芽」はその後の参議院選挙、新潟県知事選挙を経て骨太い流れとなっている。安倍自公政権とその補完勢力に、市民と野党の共闘が対決する、日本の新しい時代が始まっている。この道をすすめば安倍改憲勢力の暴走をストップさせることができるという確信を多くの人びとに与えている。
 同時にこの新しい共闘の広がりが生まれた背景には、自民党政治が戦後一貫してとってきた対米従属と財界中心を特質とした異常な政治が、深刻な行き詰まりに直面し、保守の人びとも含めた国民との矛盾をいよいよ広げているという、日本社会の根本における激動がある。
 対米従属を土台とした安保法制の強行は、憲法9条のもとでは集団的自衛権行使は許されないという歴代内閣の憲法解釈をくつがえし、立憲主義という民主政治の大原則を破壊するものとなった。また、沖縄でのオスプレイ墜落をめぐる日本政府の対応は、日本の対米従属ぶりの根深さを白日のもとにさらけだした。「琉球新報」の新垣毅編集委員が「日本政府が米国に自らひざまずき、『属国』『植民地』を買って出る。沖縄に犠牲を強いることで『日米同盟』による安全保障の利益を得る姿は、沖縄からは醜く映る。沖縄で起きたオスプレイ墜落事故は日米のそんな関係を、より鮮明にした」(「WEBRONZA」二〇一七年一月五日)とのべていて、問題の本質をついている。
 今年は、日本国憲法施行七十年にあたる。自民党の憲法改悪の策動は改憲与党が衆参両院で三分の二を占めていることからとりわけ危険な状況で進行している。自民党の「改憲草案」は、緊急事態法や個人の尊重の否定、国防軍の創設など歴史逆行、戦争国家づくり、立憲主義否定など憲法の精神を全面的に否定するものである。文学者が言論の自由を奪われ、戦争に動員されていったアジア・太平洋戦争下の痛苦の体験からも、現憲法の精神を根こそぎ破壊する改憲策動を看過することはできない。文学会は、平和主義、豊かで先駆的な人権規定を基調とする日本国憲法の改悪に断固として反対する。
 文学会は、新しい共闘の発展に対して市民運動の一翼として参加し、多くの文学者との連帯に力をつくしてきた。詩人会議、新日本歌人協会、新俳句人連盟(文学四団体)などと共同して安保法案反対の「文学者の集い」を開き(一五年七月)、これには二百人を超える会内外の文学者から賛同メッセージが寄せられた。「文学四団体」との共同はその後も広がっている。また『民主文学』では、「憲法改悪の動きに反対する」特集を組み、会外の作家、評論家の発言を掲載した。一方この国全体で昨年の書籍・雑誌の売れ行きは十二年連続のマイナスとなり、その中でも雑誌の販売部数は大幅な減となっている。活字を媒体とする「言葉」が厳しい環境にさらされていることは否めない事実である。また、安倍政権のマスメディアへの圧力のなかで言論は委縮しており、そのもとで文学会と『民主文学』が危機感を抱く多くの作家との共同の要となる責任はいっそう大きくなっている。
 イギリスのオックスフォード辞書が昨年末、年間の世界の言葉として、事実にもとづかないうそと偽りを意味する「ポスト真実」を選んだように、言葉の内実も世界的に危機を迎えている。トランプ米大統領や安倍首相の発言など偽りの言葉が蔓延している。私たちが構築する言葉の世界はそれと全く逆である。言葉によって社会と人間の真実をとらえようという私たちの運動はいよいよ大きな意味をもっている。それは文学のあり方だけでなく、社会そのもののあり方にかかわる問題であると言っていいだろう。
 言論・思想をめぐっても、安倍政権は「共謀罪」制定を狙うなど内心の自由を踏みにじる施策を推し進めており、「中立性」を装った圧力や忖度というかつての戦時体制を思わせる状況がつくられている。テレビからも政府に少しでも批判的な発言をしたキャスターが次々に姿を消すなど、言論・思想をめぐる対決はより激しくなっている。
 文系学部の縮小問題について『民主文学』も特集を組んだが、文芸評論家の石原千秋が昨年の文芸時評で、世界の形を決めているのは文化である、文系学部の縮小は、「僕たちが世界の形を決めることが出来なくなることを意味する」(「産経新聞」一六年十二月二十五日付)とのべたことも、文化と社会のかかわりを指摘したものである。
 私たちの文学運動が、人間の真実を照らす小説の創作、批評性と創造性に富んだ評論を通じて時代の危機に向き合う旺盛な活動を展開することは、喫緊の課題となっている。

(2)日本文学はどう時代に向き合ったか
 安保法制に反対する動きのなかで、文学者の発言が目立った。島田雅彦は「戦争は負の遺産しか残しません。集団的自衛権の行使は、国の『自殺行為』です。それを私たち国民が放置するなら、私たちだって『自殺ほう助』の罪を問われると同じことではないですか」(「毎日新聞」一五年七月十四日付夕刊)と語り、瀬戸内寂聴は「多くの国民が安保法案に反対したという事実、そして安倍首相と政府与党がどれだけ横暴なことをしたのかという事実は、歴史に刻まれます」(『女性自身』一五年八月四日号)と政府を強く批判した。
 注目したいことは、それが作家としての創造のモチーフとも結びついていることである。島田雅彦『虚人の星』(講談社)は、中国のスパイとなった親子と、血筋で三代目になった首相を相互に描きながら、国際情勢の中での日本の位置を見据えつつ、戦争へと進む動きに対して、日本国憲法の理念を対置した。また、瀬戸内寂聴の「さよならの秋」(『すばる』一五年十一月号)はSEALDsのデモに参加して人生観が変わった女性を主人公に、現実の危機に立ち向かう若者の姿に未来を見た。
 東日本大震災、原発事故から五年という節目には、複数の文芸雑誌が小特集を組んだ。そのなかで木村朗子は「五年後の震災後文学論」(『新潮』一六年四月号)で、視野をチェルノブイリやヒロシマ・ナガサキに広げながら、戦争の記憶と被曝の記憶とをつなぎあわせようという努力を文学のなかに見出している。
 震災と原発事故が、日本文学の全体の作家に強いモチーフとしてあり続けていることは、金原ひとみが、『すばる』一五年六月号のインタビュー「『持たざる者』を描く」で、震災の経験ときちんと向き合わなければ、二度と書けなくなるとの危機感を語ったことや、桐野夏生が『バラカ』(集英社)で、震災で原発四基がすべて爆発した八年後の未来に関東の放射能警戒区域で保護された少女バラカを通して、さらなる危機がありえたことを描いたことなどからもうかがえる。
 二〇一六年二月に亡くなった津島佑子は、この間『ジャッカ・ドフニ』(集英社)・『半減期を祝って』(講談社)・『狩りの時代』(文藝春秋)と、「3・11」をモチーフとして、集約的に言えば差別の問題を主題とする作品を書き続けた。それは、十七世紀のアイヌやキリシタンの問題、原発の問題、精神障害者の問題と多岐にわたったが、そこに通底するのは人間の尊厳をおかすものに対する怜悧で容赦のない作家の眼と前向きな作家自身の生き方の反映として貴重であった。また、中沢けいは対談集『アンチヘイト・ダイアローグ』(人文書院)でヘイトスピーチが横行する時勢に対してはっきりとした批判をつきつけ、小野正嗣も「東京スカイツリーの麓で」(『新潮』一六年十一月号)のなかで、コンゴ民主共和国からの難民男性とかれを支援する人たちの姿をとおして、日本政府の対応に疑問を投げかけた。ここにも、人間の尊厳を大切にしようとするという理念があらわれている。
 過去を風化させまいという意識は、経験を言語化するという文学そのものの機能への問いかけにもなるだろう。群像新人賞受賞作の崔実『ジニのパズル』(講談社)が描く朝鮮学校時代の記憶は、それを語ることによって主人公自身の自己認識にも結びついている。このように、さまざまな角度から現実にかかわろうとする文学者の動きは特筆されるだろう。また、村上春樹の『騎士団長殺し』(新潮社)が、ナチスによるオーストリア併合、ユダヤ人虐殺、南京事件などを通して戦争と人間の問題を中心モチーフにしたことは、その追求が十分なされたかの評価は措くとしても、今の時代に対する作者の批判として見ておく必要がある。
 現状への批判をあらわした作品も多く生まれた。暴力に同調していく流れを映し出した星野智幸『呪文』(河出書房新社)、多摩川べりを思わせる河原に住むホームレスを精細に描写した木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社)、激烈にTPP批判を展開した笙野頼子『植民人喰い条約 ひょうすべの国』(河出書房新社)など、書き手の現実認識をうかがわせる一連の作品や、少子化のゆきつく先を生殖を管理する社会として描く窪美澄『アカガミ』(河出書房新社)などである。
 しかしそこには、一つの特徴がある。津島の「半減期を祝って」は『群像』の〈30年後の世界──作家の想像力〉という特集のなかの一作として掲載されたが、この作品が現実に警鐘をならすべく描かれているのに対して同じ特集に収められた作品の多くは、30年後の世界をいささか弄ぶかのように悲劇的時代として描き出している。
 未来を悲観的な時代として描き現実への批判をこめる「ディストピア」的な作品が生まれることには、原発事故の収束の見通しも立たず、民主主義や国民生活を破壊する暴走政治の果てに予想し得る近未来を描くことで、現実に警鐘を鳴らしたいという意図が見えないわけではない。その試みは貴重であるが、欠落しているものがある。今日の新しい時代を求める動きに作家の目が届いていないのではないかということも指摘せざるをえない。激しく動く現実に身を投じて、変化の予兆をとらえ光の射す現実を描くことの大事さも強調しておきたい。
 津島佑子だけでなく、この間、高井有一、林京子など、戦後の文学の良質な流れを継いできた文学者たちが鬼籍にはいっている。そうした中で、芥川賞が商業的な消費の対象とされるような形で文芸ジャーナリズムの商業化、風俗化がいっそうすすんでいる。又吉直樹の「火花」の掲載誌(『文學界』一五年二月号)が、創刊以来初めての増刷という事態になり、第一五三回芥川賞を受賞した後は、この単行本が二百数十万部という爆発的売れ行きを示し、もっぱら話題をさらった。作品の評価よりも、いかに売れるかの話題作りに奔走する商業文芸ジャーナリズムの姿勢が顕著に表れた出来事であった。さらには支配階級の思想に服して、時の権力におもねり、社会進歩をめざす動きや人びとを攻撃する傾向が、百田尚樹の『カエルの楽園』(新潮社)などにあらわれていることも軽視はできない。
 文学作品において人生的主題を描くことを、旧来の小説の方法として否定し、現実に目を据えて描くことを放棄する傾向は年々強まっている。目新しい題材に飛びつくだけでは、本質的に新しい文学は生まれ得ないし、量産可能なものしか生み出されない。労働現場を描く作品が少なくなっていることにも、共通の要因がある。第一五五回芥川賞を受賞した村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋社)においては、マニュアル通りに行動し、「同調」することによって生きる主人公に、ある意味今日的要素が見られるが、店主も含めたコンビニ労働のシステムの全体的実態は作者の視界に入ってこない。
 日本の近代文学は、ありのままを写し取ることでその中にひそむ意味をとらえ、近代的人間性を描出しようとすることから出発した。口語文体(言文一致)をつくりだしたことも、簡単には割り切れぬ心理や感情をとらえようとする試みだった。そして人間が生きるうえで突き当たる諸問題を個人の宿命や能力ではなく、社会の仕組みに由来するものとしてとらえ、現実を変革の視点に立って認識したところにプロレタリア文学の文学史的発見があった。社会と人間を文学創造において統一的に表現しようというその試みは、私たちの文学運動にも引き継がれているものであり、文学の核心にあるものでもある。
 平和が脅かされ、人間の尊厳がないがしろにされている時代であるからこそ、私たちは社会の暗黒面にも目をそらさない作家たちの認識に敬意をはらい、様ざまな形での共同を模索しながら、文学本来の役割を発揮していきたい。そのためにも私たちは、時代の真実を見極めるべくみずからの創造を旺盛に進めつつ、次代へとつなげる組織づくりに力を尽くさなければならない。

二、民主主義文学の創造・批評

(1)民主主義文学運動の二年間の創造活動について
 この二年間に、人間らしく生きること、労働に打ち込むことの本来的な喜びを歌い上げる長編連載が多く書かれたが、その中でも初めて長編に挑戦した書き手が多くあらわれたことは今期の特徴と言える。
 最上裕「さくらの雲」は、システムエンジニア、チームリーダーとして能力を発揮していた女性が、育児休業を終え復職すると、退職を迫られついにはロックアウト解雇されるが、それに抗して裁判に立ち上がるまでを描いた。
 髙橋篤子「ピンネ山麓」は、北海道の厳しい自然を舞台に、山地酪農を始めて、借金の返済、乳価据え置きなどの困難な状況に見舞われる夫婦の苦闘と子への愛情、子の進路を巡って親子が対立し、乗り越えるプロセスを描いた。
 松本喜久夫「つなぎあう日々」は、青年教師が、橋下市政下の教育基本条例の強行、競争や管理統制が様ざまに持ち込まれるなか、新たに配置された民間校長のもとで、先輩教師や同僚たちとともに民主的教育実践に取り組んでいく姿を描き出した。
 櫂悦子「薬理屋讃歌」(「しんぶん赤旗」)は、製薬会社で研究助手という補助的な仕事の担い手と見なされてきたことへの異議申し立てを長年にわたりため込んできた主人公が、自分の体験を踏まえ若い実験動物の飼育員に、専門性を身につけることの大切さを説き、支援する過程を職場内の共産党支部の活動とともに描いた。
 野里征彦「ガジュマルの樹の下で」(同)は、太平洋戦争末期、「鉄血勤皇隊」に加わった少年の眼から苛烈をきわめた沖縄戦を描いた。戦争の真の姿を語り伝える体験者が少なくなっている中で、取材や想像力を駆使して戦争を描き続けることの意味については、この間の大会の幹事会報告で強調されたことだが、引き続き追求していくことが求められる。
 井上文夫「青空」(『女性のひろば』)は、N航空の契約制客室乗務員が構造的に仕組まれた凄まじいパワハラと雇止めの事態に遭遇して、労働組合に加盟して裁判に立ち上がる姿を描いた。
 橘あおい「一番星みつけた─東京下町の訪問看護ステーションで働く看護師の物語」(『学習の友』)は、訪問看護師のセンターで働く若い看護師が、患者や同僚などと織りなす人間的交流を映し出す描写のうちに、高齢者の心の中に残る戦争の影や、安保法案反対のたたかいのうねりを表現しようとした。
 日本を戦争する国に作りかえようとする安保法制に反対するたたかいは、かつてない広がりを見せたが、それは作品にも反映した。浅尾大輔「支部の人びと」は日本共産党の女性市議を主人公として、社会の変革に挑む組織と人間の姿を、安保法案廃案をめざすたたかいの全国的な広がりを背景に描き、渥美二郎「この夏の祈り」は、組合活動をする高校教師の「僕」が安保法案のデモに参加する一夏を描いた。
 安保法案反対のたたかいの高揚と「強行採決」への憤りは、戦争の悲惨をあらためて人びとの心のうちに喚起させたいとする創作衝動を起こさせた。能島龍三「永訣のかたち」は、戦争の加害責任を巡って自身と対立したまま死んだ父親の墓を探す話の?末のうちに、法案反対の運動の高まりをとらえた。他にも川上重人「無窮の彼方」や杉山まさし「石塊の骨」などが描かれた。
 東日本大震災から満六年が経つが、福島第一原発事故の収束はいまだ程遠い状況のなかで、あたかも収束が完了したかのように避難者支援や除染・賠償を打ち切ろうとする国や東京電力への憤りは、とりわけ被災地に充満している。たなかもとじ「意見陳述」は、福島第一原発に勤める夫と離婚した主人公が、母子ともども甲状腺異常をきたしていると診断され、子とともに東京に避難するなかで、訴訟に立ち上がるまでを描いた。震災と原発事故をめぐる題材は、他に芝田敏之「ぼくの父は」、田上庫之助「くすり」、藤咲徳治「ホロすけが鳴く日」、谷正廣「磐梯おろし」、野里征彦「ヒッチコックの溜息」、かなれ佳織「選択」、風見梢太郎「黒い凍土壁」など意識的に、多面的に描き続けられた。
 安保法制反対や原発ゼロを訴えるたたかいが、日本の多くの人びとにとって変化を確信する重大な契機となったことをこれらの作品が刻印した意義は少なくない。現象をたんに出来事としてではなく、時代の変化の中で生き方を問う人物像を通して描き、また描くことを通して作者自身の問題意識を探求していくことは、文学の創造においていっそう大切にされなければならない。
 私たちの文学運動が労働・職場を描くことを重視してきたのは、そこに基本的な人間の姿があるからということにくわえて、社会の矛盾がそこに集中的に現れているからだ。今日の雇用をめぐる状況は、非正規雇用の増大、労働者を人間として扱わない不当な雇い止めなど、深刻の度合いをいっそう強めている。
 仙洞田一彦「久しぶりの話」は、定年後七年を経た労働者が、なぜ自分は組合活動を続けてきたのかの意味を問い、山形暁子「秋の知らせ」は、公務労働の中で生まれた過重労働をとらえ、東喜啓「カボチャとナスの物語」は、パワハラが横行する企業に働く若い非正規社員が、同僚の女性から労働組合づくりを誘われる場面を描き、鴨川耕作「不当判定」は、社会保険庁の解体・民営化に伴う「分限免職」撤回のたたかいを描いた。また、笹本敦史「落葉を踏んで」は、就職して三十年以上になる生協労働者の心象風景を追いつつ、生協の存在の意味を問いかけた。風見梢太郎は「星明かりの庭」以降の連作で、ともに職場に民主主義を取り戻すたたかいを続けてきた八十歳を過ぎた認知症を患う同志への尊敬と情愛をとらえた。こうした作品は、労働現場を描くことが同時に人間の尊厳を問うことになることを端的に示している。
 それは教師への管理強化が強まる一方の、また学級崩壊、いじめなどの問題が後をたたない今日の学校現場を描くことにも通じている。教育がどうあるべきかを問いつつ描くことも、民主主義文学運動が専ら担ってきた主題だと言える。佐田暢子「半夏生」は、行政の思うままに教育に対する管理を強めようとする現実を、中学時代に友だちと学力テストのボイコットをした経験を持つ校長の視点から描いた。その他、教育現場を題材に、子どもと教師と保護者の関わりの中で人間のあり方を見つめた作品として、荒木雅子「モクレン通り」、木原信義「亘よ」、青木資二「未来切符」、馬場雅史「寂しくても 悲しくても ネギ刻む」なども書かれた。
 格差と貧困の広がりも、今日いっそう深刻さをましている。第十二回民主文学新人賞を受賞した木曽ひかる「月明りの公園で」は、福祉事務所で生活保護受給者への就労支援員をしている主人公の位置から見える生活保護受給者の様ざまな現実を描き、須藤みゆきは「春への手紙」、「二十六年目の夏」で、貧困と格差を作る社会のシステムとたたかう生き方を、生き方の違いから疎遠になっていた兄妹のそれぞれの視点から描いた。
 若い世代の作品で、第十三回民主文学新人賞の岩崎明日香「角煮とマルクス」は、父亡きあと昼夜分かたず働く母親に主人公を含めた子たちが寄り添う光景を通して、貧困などの打開の道を探る主人公の成長を描き、瀬峰静弥「ゆうたのこと」も、電車の車掌と中学卒で働く若者とが、励ましあい境遇に打ち克とうとする姿をとらえた。
 老い・介護・闘病、そして生死が多く描かれるようになったのは、会員の構成年齢にもよるが、人生の普遍的な現実がそこにあるからに違いない。青木陽子「片栗の丘」は乳癌が発覚し手術を受けた主人公の内面を、井上通泰「彷徨える秋」は「継母」の介護を、入江秀子「きよしこの夜」は「再婚同士」の夫をホスピスで看取る妻を、石井斉「青沼」は、統合失調症を病む弟をもつ兄を、工藤勢津子「ロング・グッドバイ」は、アルツハイマー型の認知症を患う母の介護を描いた。三原和枝「腕時計」は息子と兄の死の無念を負って生きる姿をとらえ、柴垣文子「羽搏き」は、ステージ4と診断された夫が夏祭りの実行委員長を引き受ける話を主軸として描いた。原健一は「花自ずから紅なり」以降の連作で、日本における唯物論哲学の先駆者永田廣志の評伝執筆の過程における思索を闘病の日常に重ねて描いた。池戸豊次「鹿を殺す」は、草深い奥美濃の地で水道屋を営む主人公の眼から、人の暮らしの隣あわせに死が当たり前のこととして存在する事実をあらためてとらえた。
 人生の来し方をふとしたきっかけから振り返る作品も多彩に描かれた。桐野遼「墓碑銘」は、占領軍指令で職場を追われ、弾圧を避けて逃亡生活をした義兄の境遇を痛切に思う関係を深く彫り込み、草薙秀一「哀しみの秋に」は、断絶二十年の末の兄の死の知らせに意外にもさみしさに襲われた主人公の胸中を描き、鶴岡征雄「雨蛙」は、一九五六年の夏を背景に進路問題に悩む中学三年の少年たちの悲しみと矜持にじっくりと目を据えて描いた。吉開那津子「或る作家の肖像」は、長崎県佐世保出身の元炭鉱労働者であった作家との奇縁を独自な作風によって描いた。
 近年の民主主義文学運動はその翼を広げ、多様な現実を映し出してゆくこと、そこに新しいリアルを創出してゆくことを重視してきたが、旭爪あかね「シンパシー」は、二十代の終わり頃〝自己不信〟と〝対人緊張〟から会社に行けなくなった主人公が、共感力と想像する力の大事さをつかんでいく過程を、竹内七奈「大切な宝を守れ」は執筆活動を妨げるバスの騒音とたたかう主人公が、重篤な身体的障害をもちながら闊達に生きる人びとと出会うことで書くことができる幸福をかみしめる姿を、秋元いずみ「はじめのいーっぽ」は、学童保育を卒業して遊ぶ友だちがいなくなった主人公の少年が不思議な少年と出会う話を、横田昌則「シグナル」は、知的障害者を対象としたグループホームで深夜働く若者の困難さと生きる手ごたえをとらえている。いずれの作品にも生き難い状況のなかで人とのつながりを求めて生きる姿が前向きにとらえられている。
 第二十六回大会期におけるルポルタージュの数は多いとは言えなくも、時宜を得て取り組まれた。『民主文学』では、塚原理恵「命を守り、心を癒す医療を!──埼玉県立小児医療センター移転問題──」、大石敏和「NPT再検討会議への要請団に参加して」、松本喜久夫「橋下維新政治にノーの審判下る──大阪市つぶしを許さなかった市民共同のたたかい」、小林雅之「職業訓練校解雇事件から見えてくる雇用崩壊社会──日本型雇用解体のもとで進行する公共職業訓練の退廃」がそれぞれ掲載された。
 田島一『巨象IBMに挑む ロックアウト解雇を跳ね返す』(新日本出版社)は、戦後の民主化によって勝ち取られ、整えられた労働法制・法理の破壊を目的として、少数の戦闘的労働組合に狙いを定めて三年間で三十五人の労働者を解雇するという暴挙がおこなわれたことを告発し、その危険な意味を明らかにした。

(2)民主主義文学運動の二年間の批評活動について
 批評(文芸評論)は、現実への批判精神を根本にして、具体的な作家、作品に即して、社会と人間の真実がいかに描かれたかを明らかにする役割がある。民主主義文学の批評は、文芸ジャーナリズムが避けがちな、労働運動や政治活動といった題材を扱う、社会や時代に対する厳しい批評精神を持った作品も含めて、日本文学の良質なところを評価し論じてきた。『民主文学』が、他の月刊文芸誌のなかですでになくなっている文芸時評欄を持ち、日本文学の動向をとらえつつ個々の作品評をおこなう意味は小さくない。その役割にふさわしいものになるよう、常に意識する必要がある。
 また、『短編小説・文芸評論秀作選』に文芸評論が掲載されたことで、批評への関心が新たに高まっている。その十八編の評論のどれもが、作家が時代とどう向き合っているのか、現代に生きる読者にとって作品はどういう魅力、価値を有しているのか、評論家自身の生き方にも重ねて問うものになっている。これらは、創造と批評を文学の両輪と位置づけて実践してきた民主主義文学運動の特質であり、日本文学の中でもかけがえのない位置を占めていると言えるだろう。
 戦後七十年、安保法制施行のもと、沖縄での新基地建設、原発再稼働、改憲策動などに対峙し、今どういう時代に生きているのかを問う貴重な批評が生まれた。とりわけ戦争加担への現実的な危機が迫る時代において、改めて先の戦争の真実を作家と作品が描いているかを問いかけてきたのは、重要な仕事である。大田努「水中花の歪んだ『美』──百田尚樹作『永遠の0』論」は、『永遠の0』が「反戦的な、感動的な物語」として読まれてはならないことを説得力ある論証によって明らかにした。一五年八月号の「特集戦後七十年」では、尾西康充「文学者の戦争責任再考」、丹羽郁生「ユダヤ人迫害と大量殺戮の『記憶』と『継承』──証言映像と小説の力」が書かれた。
 一六年四月号の特集「震災から五年を迎えたいま」では、乙部宗徳「『震災』・原発事故五年と文学」などが書かれた。同年七月号の特集「沖縄はなぜ今たたかい得るのか」では、北村隆志「大城立裕文学の両義性──『戦争と文化』三部作を読む」、松木新「長堂英吉が問いかけるもの」、尾西康充「又吉栄喜『ギンネム屋敷』論──沖縄戦をめぐる民族とジェンダー」などが書かれた。
 一六年十一月号の特集「憲法改悪の動きに反対する」では、乙部宗徳「文学作品から見る『改憲』草案」などと共に、会外の作家、評論家、翻訳家から寄せられた十人の緊急発言を掲載した。会外の文学者との協力・共同は、さらに重要になっている。
 現代文学の話題作についても、三木朋子が又吉直樹『火花』、三浦健治が中村文則『教団X』、松田繁郎が羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』、北村隆志が滝口悠生『死んでいない者』と本谷有希子『異類婚姻譚』について、それぞれの問題意識で論じた。また、馬場徹が津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ』を、吉開那津子が「半減期を祝って」について書いた。
 石井正人「ディストピア文学の現在──理想が脅かされる時代に」、谷本諭「新人賞作家たちは時代をどう切りとったか──三つの文芸誌の新人賞受賞作を読む」が書かれたが、現代文学の動向論や文芸思潮論、日本文学のうちに民主主義文学を位置づける批評の意欲的取り組みもいっそう求められている。この点では、民主主義文学の書き手についての作品論、作家論がもっと書かれなければならない。
 民主主義文学の長編完結作については、後藤守彦が原健一「胸壁を越えて」、槇村哲朗が風見梢太郎「再びの朝(あした)」、井上文夫が最上裕「さくらの雲」、野川紀夫が井上文夫「青空」、三浦健治が櫂悦子「薬理屋讃歌」、青木陽子が髙橋篤子「ピンネ山麓」を、それぞれ論じた。
 今大会期よりリアリズム論の深化を含む創造・批評の更なる発展をめざして、新たに「創造・批評理論研究会」がスタートした。その成果の中で、谷本諭「『社会主義リアリズム』とは何だったのか──二一世紀の目で考える」は、創造・批評理論研究会の報告をもとにしたものである。そこで「社会主義リアリズム」とは、スターリンが専制支配を確立する作戦の一環として打ち出し、ソ連の作家、芸術家をその奉仕者とするために考案された文学理論とは異質の〝似非リアリズム〟だったとの解明がなされた。ひきつづきリアリズムの今日的探求は、創造・批評の重要な課題であり、理論面と実作に即して進めていく必要がある。
 第九回手塚英孝賞は、須賀田省一『野田の文学・野田争議──プロレタリア文学の諸作ほか──』が受賞した。
 第二十四回全国研究集会は、能島龍三「いま、文学はどう時代にきり込むか」の問題提起をはじめ、民主主義文学の実作を踏まえて、大きな時代変革に正面から向き合って、どう創作・批評を進めるのかを目標とした。
 宮本百合子没後六十五年 百合子の文学を語るつどいでの講演、不破哲三「伸子・重吉の『十二年』──未完の『大河小説』を読む」は話題を呼んだ。小林多喜二と宮本百合子を今日からどう読んでいくのかを明らかにする評論は、多喜二・百合子を後世に伝えていく上で非常に重要である。宮本阿伎「多喜二の描いた女性像」、大田努「『言論統制』下の百合子のたたかい」、槇村哲朗「『道標』から見える戦争」が書かれたが、なかでも若い世代から浅尾大輔「『工場細胞』──日本共産党を描く多喜二的主題の現代性」、岩崎明日香「歴史の羽音を聴く──『一九三二年の春』『刻々』」などが書かれたことは、新しい書き手を広げるうえで大事な意味をもっている。
 創立期から文学運動の先頭に立ってきた先人の文学的成果を今日的に評価する意味から、澤田章子「松田解子の人生と文学の原点」、牛久保建男「たたかう人間像を刻む──佐藤貴美子の文学世界」、岩渕剛「津田孝がめざしたもの」、久野通広「没後三十五年 現代に生きる手塚英孝──時代を描いた運動の継承者」などが書かれたが、これらは文学運動の継承にとっても重要な仕事である。
 プロレタリア文学、民主主義文学などの作家、作品を論じる仕事として、牛久保建男「『戦争』に向き合った二人の作家──石川達三『生きている兵隊』、火野葦平『麦と兵隊』再読」、岩渕剛「戦時下の徳永直」、須賀田省一「松本清張とプロレタリア文学の『点と線』」、下田城玄「葉山嘉樹──後期作品をめぐって」、稲沢潤子「西野辰吉『米系日人』『C町でのノート』の方法」、松木新「アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』を読む」がある。
 またアメリカ版『日本プロレタリア文学選集』が刊行され、編者のノーマ・フィールド、ヘザー・ボウエン=ストライク(訳・須沢知花)から原稿が寄せられた。このアンソロジーのタイトルが『For Dignity, Justice, and Revolution An Anthology of Japanese Proletarian Literature』(尊厳、正義、そして革命のために─日本プロレタリア文学選集)となっており、冒頭に〝尊厳〟が置かれている。プロレタリア文学が、今日のアメリカと日本で〝個人の尊厳〟を求める共通のたたかいに大きな生命力を発揮していることに注目する。こうした視点から現代的な意義を深めることは、非常に大事である。

(3)創造・批評の到達点と課題
 震災、原発事故、安保法制、戦争、教育、貧困と格差、労働・職場、介護といった多様な題材を通して、『民主文学』の作品においては、人びとの苦境と打開するたたかい、人間らしく生きようとする希求がとらえられた。また、長編の新しい書き手が次々と生まれている。しかし、描かれた世界をより深く切実なものとして読者の胸に届けるためには、さらに努力すべき点がある。
 宮本百合子の文学を語るつどいの、不破哲三氏の記念講演では、宮本百合子の文学のリアリズムの発展と核心が明らかにされるとともに、時代を描いてほしいという、民主主義文学への期待が表明された。それは一六年九月にひらかれた全国研究集会の「いま、文学はどう時代にきり込むか」のテーマに重なる。「時代を描く」うえでは、「現実の矛盾から目を逸らすことのない批判精神」を、今日的により鋭くかつ豊かにしていく作者の眼が欠かせない。そのためには時代を動かし、動かそうとする人びととその集団をどう見出すかの主題意識と、生きる希望や挫折などの複雑さも内包した人間ドラマを描いていく芸術創造としての形象が課題となる。よりよい社会を目指して行動する人びとや運動の中での人間の成長というテーマは、「市民と野党の共闘」が日本の未来を切り開く現実性をもち、新たな変化が生まれている今日、さらに深められる必要がある。
 時代と人間の真実に迫る作品創造においては、社会と人間を自らの感性に基づいた表現様式でとらえようとする意欲的な試みと斬新な方法の探求にも挑戦をおこなっていきたい。取材や調査を通じた間接体験の広がりにより、創作活動そのものの中で書き手が新たな発見をしていくことが、作品の魅力となり、迫真性を創り出すものとなる。
 身の回りに材を得た作品には、対象への向かい方の真摯さやよりよく生きようとする人としての矜持を掬い取ることがよくなされていても、それを書くことによって何を突き詰めたいのかといういわゆる中心的な主題にまで迫り切れず、取り上げようとする題材やモチーフにのみ依拠して書かれた作品が少なくない。日常や身辺に題材を得るとしても、そこに生きる人間の時代との葛藤や周囲に生起する現象の本質を切り取ろうとする作者の姿勢によって、凡庸な作品に留まるかどうかが決まる。
 小説の場合と同じく批評も、時代性、時代認識を有していかに語られているかが鍵となる。過去の作品を論じる場合でも、今、どう読むのかという視点、筆者が今をどう生きようとしているのかを感じとらせる評論が求められる。批評が題材や梗概の紹介にとどまるのではなく、作品が描いている本質に深く迫らなければならない。書き手がどう社会と人間をとらえ、作品のなかにそれがどのように描かれ、何を語ろうとしているかを踏まえることが批評の前提であり、さらにその作品が社会的にどのような意義を持つか、あるいは文学史の上に何を新しく付け加えているかを明らかにすることが批評に本来的に求められているはずである。
 新しい評論の書き手が生まれているが、さらに多くの書き手を生み出す手だても必要であり、創造・批評理論研究会などが積極的役割を果たすことが期待される。
 この間の会員の成果がまとめられた『民主文学館』では、最上裕『陸橋の向こう』『さくらの雲』、坂井実三『枇杷の花の咲くころに』、森田智松『もりたともまつ作品集』、平瀬誠一『人、立ち枯れず』、にしうら妙子『淡雪の解ける頃』の六冊が刊行された。この他、この二年間には多くの会員の著作が刊行された。一部を記せば、野里征彦『渚でスローワルツを』、風見梢太郎『再びの朝(あした)』、大浦ふみ子『サクラ花の下』、新船海三郎『戦争は殺すことから始まった』、碓田のぼる『「冬の時代」の光芒──夭折の社会主義歌人・田島梅子』などである。

三、文学運動の灯を次代に引き継ぐために

(1)文学会の組織と財政の現状
 二十六回大会期の文学会の組織は、当初全国的な組織拡大への取り組みにもかかわらず、会員・準会員・定期読者ともに減少傾向が続いた。第三回幹事会をひらいた一六年五月末の時点では、第二十六回大会時と比べて、会員で十二人、準会員で七人、読者で百十三人、合計すると百三十二人の減という厳しい事態であった。これは組織・財政問題の緊急討議の必要から、例年より一ヶ月半前倒しして開いた第二十四回大会期の一一年八月時点よりも合計で百六人後退しているという、まさにこのまま進めば「文学運動の灯が消える」事態を示していた。第三回幹事会は、「文学運動存続のために、支部活動の活性化・創作力の向上と組織拡大に全力を」のアピールを出し、二十七回大会までに会員・準会員あわせて千人、定期読者千二百人で新日本図書と普及の六百部を合わせて、二千八百部の最低採算ラインを突破することを全国によびかけた。その結果、第三回幹事会以降、会員・準会員あわせて六十五人、定期読者四百六十八人を拡大したものの、退会・中止もあって、残念ながら、まだ本格的な前進は得られていない。四月末現在では、二十六大会時比で会員十四人減、準会員は十一人減、定期読者は一人増であり、会員・準会員あわせて九百十三人、定期読者千百一人の到達となっている。

(2)この二年間の活動から何を導き出すか
 文学会は、一五年八月二十六日に創立五十周年を迎えた。現実の矛盾から目を逸らすことのない批判精神をよりどころに、いかに生きるかを語り、社会と人間の真実の描出に挑む作品創造を追求し、新しい書き手を常に生み出すことで、月刊の『民主文学』の発行を続け、文学運動を継続してきた意義を確認するとともに、その存在を全国および地域に知らせる活動に取り組んだ。
 一五年八月の記念レセプション、一六年五月の婦人民主クラブ、多喜二・百合子研究会と共催で取り組んだ「百合子の文学を語るつどい」など五十周年事業は成功裡に終えることができた。
 支部主催の五十周年記念文芸講演会は、伊豆、香川、東久留米、兵庫(阪神・神戸)、弘前、愛知、東葛などでおこなわれた。民主主義文学会と支部の存在をその地域に示すことは、文学運動を継続させるうえで大事なことである。また、支部紹介チラシも十数支部で作成され、新聞折り込みや諸団体への配布がおこなわれた。その中から新たな準会員や読者が生まれている。今後も地域に民主文学会と支部の姿を見せていく活動に継続的に取り組んでいく。
 一六年四月に発行された五十周年記念『民主文学』臨時増刊号『短編小説・文芸評論秀作選』は、会員・読者の推薦も受けた刊行委員会の選考を経て、小説二十編、評論十八編の秀作を収めて刊行された。今回の『秀作選』は、初めて評論を含めたものとして刊行され、民主主義文学の創造と批評の到達を示すものとなった。全国の支部の活動もわかるエッセーや五十年のあゆみも含めて、文学会の全体を伝えている。
 これまでの会外への普及数はすでに千部を超えている。この『秀作選』で、初めて民主主義文学の作品にふれたことで、積極的な感想も寄せられている。文学会を広げるためにも、引き続き積極的な活用をおこなっていく。

 二十六回大会期の組織拡大には、いくつかの特徴と教訓となるものがあった。
 準会員の拡大では、当初は、会員・準会員からの紹介よりも、民主文学新人賞の応募者、「しんぶん赤旗」に載せた『民主文学』の広告を見て、直接、事務所に加入を申し込む人が続いた。これは、文学会の周りに、「書きたい」「文学について語りたい」という意欲を持つ方がたくさんいることを示すと同時に、私たちの働きかけにより新しい人を迎え入れる可能性が存在することを物語っている。
 第三回幹事会以降、「拡大推進ニュース」の発行、「『民主文学』をご購読いただいている皆さまへ」の読者への訴え、会員・準会員への会長名での年賀の訴えなどをおこなうなかで、組織拡大に参加する人がかつてなくふえてきている。最低採算ラインを超えるために必要とする拡大目標の数は決して小さなものではないが、全国の会員・準会員のつながりを生かすことができれば不可能な数字ではない。ただ、高齢や経済的な理由で退会、購読中止も生まれている。準会員・読者とも常に増やす努力を続けない限り前進はない。「増やさなければ減る。停滞はない」が文学運動の原則である。常に新しい読者を見出し、新しい準会員を迎え入れることが不可欠である。
 準会員は民主主義文学運動を支える土台ともいうべきものである。準会員には、書きたいと思っている人はもちろん、文学が好きな人、この文学運動を大事に思う人ならどなたでも加入することができる。いかに生きるかを問いかける文学を愛する人が加わってこそ、文学運動の継続が可能となる。準会員をふやすことは、文学の創造団体として最も重要な課題であり、支部の結成、存続の要件になるものとして、欠くことはできない。
 私たちの文学運動は、自力発行を続けている全国文芸誌『民主文学』を中心に進められなくてはならない。『民主文学』を広範な読者をもつ、さらに魅力あふれる文芸誌として発展させ、質の高い豊かな創造・批評を展開するには、一人一人の書き手の創造・批評の力の向上が強く求められる。会員、準会員がそれぞれの問題意識を深め、中心にこめる思想(主題)が明確になった、力のこもった作品の投稿が必要である。その投稿作品に磨きをかけていく丹念な援助や、毎号に魅力ある企画を組むなど、読まれ、周りに勧めたくなる雑誌をめざしていく。それには編集委員会と常任幹事会の不断の努力が重要である。
 創作活動は個人の営為であり、その質的向上はひとえに個人の努力と研鑽にかかっている。しかし、文学運動の五十年以上の歴史が示すように、研究集会や合評会、あるいは文学教室や創作専科等での先輩の指導や集団的討議が、個々人の創造・批評の質に大きな影響を与えてきた。文学運動の創造・批評の発展を保障してきたのは、そうした集団的な取り組みであるとも言える。全国研究集会、各地の研究集会の充実と共に、個々の財政負担の少ない文学教室や創作専科を全国規模で展開するなど、各地の書き手に自己研鑽の手立てを保障することが今強く求められている。
 創作の発展には、作品を読んでくれる読者の声も大きく影響する。総ての書き手が、自分の周りに自らの創作を批評してもらう読者を組織できれば、運動は更に強化できるだろう。常に見本誌を持ち歩き普及に心がけたい。

 二十六回大会期中に、佐賀、東京東部、大阪北支部が結成され、山梨支部が再建された。
 佐賀での支部づくりの経験は教訓的だった。二十六回大会の時点では準会員二人、定期読者一人と、全国でも二番目に会員・読者の少ない県だったが、「こんなに面白い月刊誌が発行されなくなっては大変」という思いで、まず読者を増やすことから始め、二桁の読者が生まれた時点で、読者会をひらき、「創立五十周年を迎える民主主義文学運動」という講演もおこなう中で、新たに六人の準会員が生まれ、支部を結成することができた。これは、佐賀の準会員・読者の大変な努力があったことはもちろんだが、『民主文学』の魅力を語り、文学会の姿を知らせることで、全国どこでも前進の可能性があることを示している。佐賀支部では、二十人が執筆する支部誌を発行した。新しい支部は、新しい文学創造の風を地域に巻き起こす。その意味でも、空白県をなくすことがいま大変重要になっている。
 現在、文学会の支部がない都道府県は、群馬、福井、滋賀、島根の四県である。昨年、東京でも隅田川以東の東部地域に東京東部支部が設立されたが、その地域に長く住む準会員、読者として文学会を支えてきた人たちが、新支部結成により創造への意欲を燃やし始めるといった実態がある。大阪北支部も同様であり、空白の四県だけでなく、大都市の中でもそれぞれの地域で比率の低いところなど、各地で新支部結成の可能性を探り、幹事会、常任幹事会が積極的支援をおこなっていきたい。
 全国の支部の中には実態をなくしているところや、例会も開催できないなどの困難を抱えたところがかなりみられるようになっている。しかし、さまざまな手立てを講じ、地域の文学愛好者に呼びかけて、新たな活動に踏み出すことは可能である。支部再建のために、困難を抱えている所へのオルグ(講師)派遣ならびに、集まりの呼びかけのための通信費やチラシ代の援助など、あらゆる手立てを講じていきたい。
 二十六回大会期には、若い世代の文学カフェが、福岡県・北九州、愛媛県・松山、東京都・代々木の三か所で取り組まれた。若い世代の作品を企画の中心に置き、次世代のみならず各地の支部のメンバーが積極的に支援し、若い世代を中心とした文学愛好者と文学会のつながりを広げ、次代の運動を担う書き手を育てることが目的とされた。支部員に若い世代がいない支部でも、組織部や若い世代の文学カフェ担当者が出向いて全国でどこでもカフェなどの企画を開催できるよう取り組みを強める。インターネットの活用による新たな広がりも生まれていることを踏まえて工夫をおこなう。第五回若い世代の文学研究集会は一五年十一月に千葉県でおこなわれ、七人の初参加者を迎えるなど、新しい広がりも生まれている。今回は、創造力量の向上をめざして、基礎講座と創作専科の二つに分けておこなったが、引き続き創作上の研鑽に力を注ぐ。また、次世代の書き手を生み出すために、『民主文学』の編集部としても力を尽くす。
 魅力的な「心さわぐシニア文学サロン」を開催して、文学を愛好する広範なシニア層の文学運動への結集をはかる。シニア層の小説を書きたいという要求を受け止めた企画を検討し、合わせて全国展開をはかっていく。
毎月おこなわれている『作者と読者の会』は作者も参加して、その作品をどのように読んだか、どう描かれたかについて論議が深められ、書く立場からの考察もおこなわれる貴重な場になっている。インターネットTV電話(スカイプ)を使って全国からの参加も可能であり、作品論議を深め、創造、批評の力量向上の機会として活用していく。
 「創作研究会」は、自主的研究組織として文学会の組織機構外の研究組織の一つに位置づけた。昼間の文学教室の開催、土曜講座の盛況など、新たな広がりを生み出しているが、引き続き各地におけるミニ文学教室や創作専科の開催など、全国との連携もはかっていく。
 今期は、この間の研究会活動の到達点を踏まえ、新たな評論の書き手を増やすこと、理論的探究を進めることを目指して「創造・批評理論研究会」をもつこととした。これもインターネットTV電話を活用することで全国での理論的探究の強化を進めたい。

(3)改めて幹事会の役割を明確にし、支部活動強化・活性化に全力を
 日本民主主義文学会は、「日本文学の価値ある遺産、積極的な伝統を受けつぎ、創造・批評、普及の諸活動を通じて文学、芸術の民主的発展に寄与することを目的とする作家・評論家を中心とした団体」(規約第二条)として、規約第三条にかかげるように、『民主文学』の発行、創造・批評、研究や新人の育成などの諸活動をすすめることとしている。そのなかで、幹事は『民主文学』をより魅力ある雑誌にするために、創造・批評の先頭に立つとともに、新たな書き手を育成することも含めて、文学会の存続を可能とする組織強化に力を発揮することが強く求められている。二十七大会期の幹事定数を前期より五人増やして五十人とするが、これは現在の厳しい組織状況を全国の知恵で打開するために、全国各地から幹事にふさわしい力量をもった人を加えつつ、今後の文学運動を見据えて世代的継承もはかれるようにすることを目的としている。なお、幹事選挙については、民主的な方法により組織の活性化に結びつくことが可能かどうか、検討を深めたい。
 幹事会の定数をふやすことで、支部とのつながりをより強めていく。文学会の規約では、幹事会と支部というつながりを基本にしており、中間機関は設けていない。二十六回大会期中の新支部の結成にもみられるように、幹事会と直接支部が結びつくことが重要である。
 書き手の創作力・批評力向上のためには、何よりも文学運動の五十年を支えてきた全国の支部活動の活性化が不可欠である。支部活動の中心は毎月の例会であり、中でも特に作品合評が重要である。とりわけ全国の会員準会員の創作から選ばれた『民主文学』掲載の作品を、例会の合評の対象に位置づけることは、自分と同じ志を持つ書き手から学ぶことであり、どのような創作が今求められているのかを考えることにもつながる。感想や印象をのべ合うだけでなく、作者のモチーフを探り、作品の主題を明らかにし、構成や描写や文章を検討する「書くための」合評が求められる。支部誌は、地域の文学的エネルギーを結集し、作品の発表の場として貴重な役割を持っている。そして『民主文学』の毎号の支部誌・同人誌評は、支部誌の掲載作品の客観的な評価をおこなうとともに、新たに書きはじめた人に共通する課題を明らかにすること、また、日本文学の草の根の力となっている同人誌への評価として大事な共同の役割も担っている。
 また、新しいメンバーが加わることで支部活動が活気づいたという経験を、全国の多くの支部が持っている。新しい準会員を迎え、参加するのが楽しくなる支部の雰囲気づくりを重視し、充実した合評とともに、支部誌・ニュースの発行、幹事・常任幹事を講師にした支部単位の創作専科などの開催も含め、皆で創作力を高め活発な支部活動を目指していこう。
 支部同士の交流を含めての合同合評会などの行事も、支部活動を活性化するきっかけになる。同時に、支部に若い世代を迎えるために、若い世代の諸行事への、支部としての支援も強化する必要がある。

(4)経営改革
 今期の会計には『秀作選』の収支が含まれており、それを除いて計算すると、前大会期に比べて、会員・準会員会費が約三〇〇万円の減収となっている数字は、我が文学会の組織実態を財政面からも如実に示したものとなっている。これは、現在の会を構成する年齢分布から見ても、更に極端な形で進行して私たちに突き付けられることが予測される。
 組織拡大の課題を前面に、一貫して取り組むのは自明のこととして、文学運動を次代に引き継ぐためには、英知を結集して経営改革に取り組んでいかなければならない。
 この課題は、私たちの創造活動の柱である『民主文学』の発行を、どう維持し、いっそう魅力ある文芸誌にしていくかの問題として提起されている。具体的には、『民主文学』発行経費を、会の実態に即して大幅に低減し、長期にわたって続けられるような、大胆な経営形態の改革の方途を探っていくこととなる。
 本改革の実施には様ざまな困難をともなうが、運動を次代に引き継ぐうえで最も重要な問題として直視し、会全体で力を合わせて乗り越えていきたい。

(5)文学運動の新たな広がりを
 全国には九十以上の支部があり、その中には数十・数百の支部誌読者を持つ所もある。支部誌に地域の文化誌としての役割を持たせ、多くの人のエッセーや自分史等を載せている支部もある。広い意味での文学愛好者は、私たちの周りに少なからず存在する。また、各地には、まだ文学会とつながりのない書き手や、文芸同人がたくさんいる。そうした幅広い人びととの結びつきを重視し、その人たちの中に『民主文学』読者を増やし、積極的に書き手を見出していく必要がある。
 さらに、私たちに少なからぬ創作のテーマを与えてくれる労働組合などの民主勢力の中にも、『民主文学』のお誘いが届いていない所が少なくない。そういう団体やそこに所属する人びとにも依拠し、広い裾野と高い峰を擁する、強力な文学運動を構築していくことを、いまあらためて訴えたい。

 世界でも日本でも排外主義的な論調が流れている。人間の尊厳を否定する動きに文学の言葉で対抗したい。人を結び合う言葉をつくりだすことは、新しい時代をつくりだす動きと確かに響き合うだろう。戦争への道と平和を求める声が激しくせめぎ合ういま、時代に切り込み、社会と人間の真実を描く私たちの文学運動を、一人一人の構成員の渾身の力で前進させていこう。
 以上

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