2013年5月に開いた第25回大会の報告です。(第20回以降の大会報告) |
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時代と人間を見据え、文学の明日を切り拓こう ――日本民主主義文学会第25回大会への幹事会報告―― 報告者 能島龍三 |
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東日本大震災と福島第一原発事故から二年以上が過ぎ、日本社会は再び閉塞と混迷に覆われつつあるように見える。しかしその底流では、「3・11」を経て培われた人々の連帯と運動が着実に広がってきている。こうした時代に、日本文学はどのような作品を生み出し、人々に何を訴えてきたのだろうか。また、多くの人々の苦難と生活向上の願いを前にして、日本の文学はどうあるべきなのだろうか。さらに、一九六五年以来四十八年の間、人間と社会の真実を描く努力を続けてきた私たちの民主主義文学運動は、この社会状況を前にどんな創造・批評に取り組んできたのか。そして、そのことにはどんな意味があり、また、今後追求すべき課題は何なのか。第二十五回大会は、この二年間を振り返って、それらのことを第一に明らかにしていかなくてはならない。 前大会では、取次会社経由の購読者減による文学会の組織的・財政的な危機が訴えられた。大会後、その危機を乗り越えるための、会を挙げた二度の「拡大大運動」が提起され、それは今大会まで続いてきている。全国でのこの取り組みは、『民主文学』発行危機打開の土台ともなり得る大きな組織的前進をもたらした。第二十五回大会では、第二に、大運動の到達点を明らかにし、五年後十年後の民主主義文学運動を展望しつつ、年齢構成など組織の現状を踏まえ、運動の継続発展のためにいま何を為さなくてはならないのか、組織的・財政的課題をも明らかにする。 今年は、規約を変えてより多くの文学を志す人々に門戸を開いた、第二十回大会から十年目に当たる。今大会では、規約改正以降の到達を踏まえ、民主主義文学の一層の発展を目指した将来展望についても、大いに議論していく必要がある。 一、 情勢の特徴(1)東日本大震災と原発事故は、今も日本社会に大きな影を落としている。レベル7とされる福島原発事故は依然収束せず、震災復興も遅々として進んでいない。被災地では未だ三十一万もの人々が避難生活を続けている。その中で国民の生活状況はさらに悪化し、被災地の人々をはじめとして、多くの国民は引き続き苦難を強いられている。沖縄では、全県ぐるみの反対運動にもかかわらず、欠陥機オスプレイの配備が強行された。不安定雇用や福祉削減等がもたらす格差と貧困は、ますます広範な人々の間に広がっている。親から子への貧困の連鎖が社会問題となり、少なくない学齢期の子どもたちの生活と学習の権利が奪われている。こうした社会状況を打ち破ろうと、脱原発、反貧困、反TPPを訴える官邸前行動のような、新しい形の運動も全国で巻き起こっている。労働者の闘いも、困難な中全国で続けられており、いくつかの画期的ともいえる前進が見られた。徳島大学では約千人の有期雇用職員について、労働組合の粘り強い闘いによって雇用期限を撤廃させた。また、大手自動車メーカー、マツダによる大量派遣切りの違法性が山口地裁判決で断罪され、防府工場の十三人が正社員としての地位を確認された。このように国民の側からの反撃も始まっている。私たちはこのような国民の運動の広がりに注目する。(2)昨年十二月の総選挙において、国民は民意を裏切り続けた民主党政権に厳しい審判を下した。一方自民党は、小選挙区制度により虚構の多数を得て、公明党とともに政権に返り咲いた。靖国派の安倍新首相は、何よりもまず憲法九条改悪に向けて、改憲手続きを定めた第九十六条改訂の策動を開始した。そればかりか、軍事予算の大幅増額、集団的自衛権行使を目指しての安保法制懇の再開、さらには武器輸出三原則の大幅緩和など、戦争のできる国作りに向けた具体策が次々と打ち出されている。アベノミクスなどとしてマスコミに持ち上げられているが、安倍政権の言う経済政策の三本の矢とは、無制限の金融緩和、大型公共事業のばらまき、大企業応援の「成長戦略」という、過去の自民党政権で破綻済みの反国民的な政策の焼き直しである。今、非正規雇用が増大し、働く人の所得は減少を続けている。その上、生活保護費の削減までが目論まれ、連動しての賃金のさらなる引き下げも予想されている。それに加えて消費税増税が実施されれば、国民生活の危機は極限にまで進み、消費も一層冷え込むことが明らかである。このような方向とは逆に、雇用を安定させて働く人の所得を増やし、国民の生活を豊かにすることこそが、経済の好循環につながる経済政策として求められている。 (3) 安倍内閣は今、財界と米国の意を受け、TPP交渉参加、消費税大増税と福祉の大幅切り捨て、原発の再稼働と新設、普天間基地の辺野古移設等、悪政を一層推進する道をひた走っている。しかしながらこの政権は、成立当初から、簡単には解消できない大きな矛盾を抱えている。安倍首相は、過去の侵略戦争や日本軍「慰安婦」への反省を表明した政府見解の見直しを企図しているが、実施すればアジア諸国から大きな反発を受けるだけでなく、自民党最大の後ろ盾である米国との間に亀裂が入ることにもなりかねない。また、この政権は、有権者比得票では、小選挙区で二四%、比例代表では一五%しかない虚構の多数で成立したものであり、こうした悪政を強行すれば、いずれ国民多数との大きな矛盾に突き当たらざるを得ない。ただ、現在の国会には、与党ばかりでなく野党の中にも、維新の会など憲法九条改悪勢力の存在があり、彼らの策動も今後ますます激しくなるものと予想される。幅広い個人・団体が力を合わせ、平和と民主主義、国民の生活を守る闘いを一層発展させていくことが求められている。 二、 「3・11」と日本文学(1) 「3・11」の大震災とレベル7の原発事故を経て、多くの作家たちの中に時代と現実に目を向け、意識的にそこに関わって書いていこうとする流れが出てきている。それらの中には、この国のあり方を、近代日本の形成期にまで遡って再検討し、「3・11」の意味を受け止めようとする動きもある。民主主義文学運動もまた、「3・11」を真正面から受け止め、創作・評論の分野で積極的な役割を果たしてきた。日本文学のこうした動きは、戦後文学以来の日本文学の原点を思い起こさせ、震災問題にとどまらず、文学の果たす社会的意味を問う流れとして注目すべきものである。池澤夏樹はいち早く、「良き貧しき国の再生を目指して、『昔は原発という危ないものがあって……』と言える日に向かって進もう」(週刊朝日増刊『朝日ジャーナル 原発と人間』一一年六月五日号)と書いた。原発事故を「広島へのもっとも明らかな裏切り」と、これもいち早く発言した大江健三郎をはじめとして、澤地久枝、鎌田慧ら文学者たちも、原発をなくす運動に積極的に参加している。大江は、二〇一二年七月十六日の「さようなら原発十万人集会」で、十七万の参加者を前に、原発大事故のなお続く中で大飯原発を再稼働させ、さらにそれを広げていこうとしている政府に、「私は今、自分が侮辱されていると感じている」と述べ、「私らは侮辱の中に生きています。私たちは政府の目論みを打ち倒さなくてはならない」と訴えた。また、一三年三月九日の集会でも「広島、長崎、そして福島をナカッタコトにしようとする連中と闘う」という強い決意を表明した。福島県三春町の寺の住職である玄侑宗久は、「震災を機に原発に代表される効率や市場経済を優先するシステムの危うさが露呈したはずだった。しかし、この国はその教訓を生かす方向に進んでいない」。全国に散らばった福島県民はユダヤ人状態となってしまう、「国としての責任と決断が問われています」(一二年二月三日付「毎日新聞」)と厳しい批判をくわえた。これら一連の発言は、日本の文学者の良心の表現として記憶されるべきものである。 原発事故から一年四ヶ月経った二〇一二年七月、多くの国民の反対の声のなか、大飯原発が再稼働された。その年の十月九日、加賀乙彦らの呼び掛けによって脱原発文学者の会が発足したことも注目すべきことである。また「3・11」のあと、芥川賞作家の川上未映子や朝吹真理子が脱原発集会やパレードに参加し、朝吹はデモの効果的なあり方について新聞で提言するなど、震災と原発事故は若手を含め、多くの文学者に大きな影響を与えた。 この間、多くの作家たちが「3・11」に向き合って作品を発表してきた。東北出身の作家古川日出男は、震災から一ヶ月後の現地で見聞したものを、車の移動によって見えてくる光景に、自分が書き続けている作品世界を織り交ぜつつ「馬たちよ、それでも光は無垢で」(『新潮』一一年七月号)を書いた。同じく東北出身の木村友祐も、故郷の地の深刻な被害に直面する「イサの氾濫」(『すばる』一一年十二月号)を書いた。また玄侑宗久は、大津波の悲惨を、人間再生の祈りを込めて小説「蟋蟀」(一一年『Story Power』)に書き、その後も「アメンボ」(『新潮』一二年十一月号)、「拝み虫」(『文學界』一三年三月号)と、原発事故によって傷ついた人々の姿を描き続けている。 若手もそれぞれの視点で大震災に向き合おうとした。岡本学は、仕事も人生も諦めて東北に移り住み、孤独の中で街に鉄道を作る空想遊びに熱中していた男が大津波に遭遇する「架空列車」(『群像』一二年六月号・群像新人文学賞)を書いた。主人公は被災者たちに頼りにされるようになるのだが、そのことが人々との開いた人間関係には結び付かず、男は再び架空の世界に戻っていく。この結末のあり方は議論になったが、被災地の現実を受け止めて作品化したという点は評価できよう。 原発事故に目を向けていち早く書かれた小説としては、放射能汚染が日常化した世界を寓意的に描いた、川上弘美「神様 2011」(『群像』一一年六月号)があった。モブ・ノリオ「太陽光発言書」(『すばる』一二年一月号)は、身の回りの問題に原発全廃の強烈な思いを乗せて、福島のライブに参加して現地の実態を見ていく作品だった。瀬川深は、「東京の長い白夜」(『すばる』一二年三月号)で、「3・11」以降、極度の不眠症に悩まされ、いつか夢とうつつの区別がつかなくなり、原発推進を説く男に批判の思いを激しく叩き付ける女性を描いた。黒川創は、劣化ウラン弾が使用されたサラエヴォと福島を重ね合わせ、人間の犯した過ちを問う「神風」など、大震災と原発事故に取材した短篇小説を集めて『いつか、この世界で起こっていたこと』(新潮社一二年五月)を上梓した。これらの創作の背景には、原発の危険に対して発言も行動もしてこなかったことについての、作者それぞれの誠実な自己省察があったと言えるだろう。 「3・11」で故郷を追われた被災者の真の幸せとは何かを問う「ヒグマの静かな海」(『新潮』一一年十二月号)を書いた津島佑子が、米兵との混血孤児たちの戦後と、彼らの見た3・11を主題にした五百二十枚の長編「ヤマネコドーム」(『群像』一三年一月号)を発表した。大震災と原発事故を描いた初めての本格的な長編小説の登場と言える。津波の死者が発信するラジオを通じての死者と生者のやりとりに、死者たちの声に耳を傾けてこそ「この国を作り直す」ことができるというメッセージをこめた、いとうせいこう「想像ラジオ」(『文藝』一三年春号)も、「3・11」後のこの国の現実を見据えたひとつの到達であろう。 林京子の「再びルイへ」(『群像』一三年四月号)は、被爆体験を核に創作を続けてきた作家が、脱原発集会に参加して出会った人々の姿を通して、核廃絶のバトンは若い人たちに渡っていることを実感し、被爆者として原発事故を語っていこうとする内容である。原発事故を、ヒロシマ、ナガサキとの関連で捉え返していくことは、「内部被曝」をなかったことにするようなこの国のこれまでありようを浮き彫りにし、今後のあるべき姿を指し示す重要な視点である。 大震災と原発事故から一年経った二〇一二年の時点で、『いまこそ私は原発に反対します』(日本ペンクラブ編・平凡社)、『「3・11」を心に刻んで』(岩波書店)、『それでも三月は、また』(講談社)など、文学者たちの声や創作を集めたアンソロジーが次々と出版された。これらは、放射能汚染被害の広がるなか、事故原因の究明もないままに原発再稼働を企図している政府と電力業界に対して、文学に携わる人々が、それぞれの立ち位置から反対と抗議の意思を表明したものであった。またこれら三冊のアンソロジーには、復興が進まぬ被災地の仮住まいで、大きな喪失感を抱えたまま先の展望を見出せずにいる多くの被災者に、文学者たちがどのように心を寄せ、何を書くべきかという真摯な姿勢と懸命な努力が凝縮されていた。 (2)『民主文学』では、大震災直後から特集や座談会などの企画を積極的に推進し、「3・11」とその後に向き合ってきた。震災から一年後には、特集「東日本大震災一年と文学」で、新船海三郎が「3・11から、3・11へ」を書き、戦後日本をつくってきた社会や運動の問題にまで視野を広げ、現代に生きる人間として、かつ文学者としてのありようを問うた。また牛久保建男は全国研究集会の問題提起で、「3・11」を経験した私たちは、より一層「作家の眼がリアリズムによってきたえられること、題材に対して作家のそういう向き合い方」が求められると問題提起した。二年後の特集「東日本大震災、原発事故から二年」では、北村隆志が「日本文学と3・11」で、井上ひさしの群読劇「少年口伝隊一九四五」や宮本百合子「播州平野」などの作品を論じながら、「3・11」からの真の復興と再生とはどうあるべきかを問い掛けた。他の文芸誌が二年目の時点でどこも「3・11」に触れないなかで、この特集は意義あるものとなった。 創作では、風見梢太郎が、節電のために週休日を変更されて難儀する人々を描いた「週休日変更」など、原発事故をテーマとする連作を試みていることは、一つのあり方として注目されてよい。能島龍三は「雪が来る前に」で、引きこもっていた青年がボランティアに行った被災地の現実を前に、これからの生き方を自身に問いかける姿をとらえた。また相沢一郎の「釜石のダチ」は、神戸東部を舞台として、かつて釜石の鉄鋼労働者だった廃品回収の男性と、偶然知り合った大学生との関わりを通して、阪神淡路大震災とこのたびの大震災の両視点から、災害に屈せず生きる人間の底力を浮かび上がらせた。事実と虚構をめぐって論議を呼んだ櫂悦子「南東風が吹いた村」は、福島第一原発の爆発事故後、時間が経ってから放射能汚染が判明した地域の繁殖農家の男性の苦悩を描き出した作品だった。震災をいちはやく題材に取った作品では、野里征彦が「瓦礫インコ」で、津波によって家族を失った漁師が、舞い込んできたインコの「ガンバレヨ」という声に励まされ、再び漁に出るまでの再生の姿を鮮やかに捉えた。中村恵美は「海と人と」で、津波に襲われた人々が、不安と恐怖の中から力を寄せ合って前に進もうとする姿を描いた。震災当日、不確実なチェーンメールを回してしまった女性の内心の葛藤を描いたのは、旭爪あかねの「ジャスミン」だった。浅尾大輔「猫寿司真鶴本店」(『モンキービジネス』一一年秋号)は、妻を失った飼い主の悲しみを猫の目から描いた作品だが、そこに「3・11」の被災が反映している。 文学を志す者が、東日本大震災と原発事故という大きな出来事を、創造・批評に結実させようという思いを持つのは当然である。ただ、「3・11」あるいはその後を描くということは、被災地を描くことだけを意味しない。また、「3・11」を歴史の大きな転換点とする考えに対して、この国の閉塞状況は「3・11」後にむしろ深まったのであり、社会の底辺で苦難に直面している人々の実態は、変わらず深刻なのだという指摘もあった。前大会は、当初「閉塞の社会に真向かう新たな文学創造を」をテーマとして掲げていたが、「3・11」後も、その状況は変わっていない。今われわれ書き手には、大震災・原発事故が何を投げ掛けたのかの問いを深くし、この国の人間と社会のありようを、過去から現在まで新しい目で見つめて、その真実に迫る文学創造が求められている。 「3・11」に関するルポルタージュとしては、平野啓一郎「被災地までの距離」(『群像』一一年七月号)がある。これは四月十三日から五月一日に、宮城から岩手までを平野自身が視察した貴重な記録である。『民主文学』にも、広田次男「いわき市からの原発公害報告」と前田新「原発事故から六ヶ月、私達は何を見たか」が発表された。三浦協子の「下北と核・辺地差別 ― 大間からのレポート ―」は、原発建設が強行されている下北半島大間の現状と運動に関する、脱原発への強い思いを下敷きにしての報告であった。 三、日本文学の動向について(1)この二年、震災や原発事故をテーマとする作品の他にも、戦争や基地、領土問題など、社会や歴史を尖鋭に捉える創作や発言があった。若手の戦後世代の手で戦争に関わる作品が書かれたのは、この間の一つの特徴と言えるだろう。西川美和「その日東京駅五時二十五分発」(『新潮』一一年九月号)、柴崎友香「わたしがいなかった街で」(『新潮』一二年四月号)、赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)などの一連の創作は、戦争や戦争責任、戦後処理の問題を戦後世代に考えさせるきっかけとして意義あるものであった。一九六五年生まれ以降の中堅、または若手の女性作家たちが戦争に着眼して書き出したことも特徴的であり、今後の彼女らの創作に注目していく必要がある。戦争体験者の創作としては、樺太の真岡郵便局で敗戦時に起きた電話交換手の集団自決事件を題材にした、辻井喬「雪の夜ばなし」(『文學界』一二年二月号)があった。同じく古井由吉が「子供の行方」(『群像』一一年八月号)で描いたのは、大震災から呼び覚まされた空襲の記憶であった。 この間、戦争を肯定的にとらえた作品や、植民地支配の時期に書かれたものまでをも含むアンソロジーである『コレクション戦争と文学』(集英社)が刊行されてきた。プロレタリア文学が生みだした反戦文学を掲載していないなどの限界を持つが、日本の文学界が、戦争及び戦争の時代にどう向き合ってきたのか、その全体像を掴むための資料的価値を持つ全集である。特筆すべきは、従来このような企画から除外されることが多かった民主主義文学の作家、金達寿・西野辰吉・霜多正次・窪田精・李淳木・戸石泰一・冬敏之などの作品が収録されていることである。文学運動の中から生まれた作品を、日本文学の流れのうちに正当に位置づける動きとして注目したい。 外科病院の一族の人生を巻き込む戦後の出来事を批判的に描き出した加賀乙彦『雲の都』(新潮社、全五巻一二年八月)は、戦争体験をもつ人々が少なくなっていく中、未来の希望そのものである若者への期待を込めた作品だと言える。この大部の自伝的小説を完結させた加賀は、作品に関する発言の中で、「日本は子羊のようにアメリカの言う通りに安保条約を結んだ、日本中に米軍の基地が作られ、六十七年たっても変わっていない、まだ戦争は終わっていない」(二〇一二年九月十一日「東京新聞」夕刊)と述べた。この問題に関わっては、沖縄の作家、大城立裕の短編小説集『普天間よ』(新潮社・一一年六月)の刊行にも注目が集まった。表題作は、米軍機の爆音で琉球舞踊の音楽が掻き消されながらも、主人公の手振りと音曲とが合っていたことで、米軍基地に屈しない沖縄県民の誇りを謳いあげる、文学形象による見事な現実批判であった。 尖閣諸島の帰属を巡って中国との対立が深まり、最悪の場合には武力衝突も懸念される事態を前に、村上春樹が「『我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない』という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ」(一二年九月二十八日付「朝日新聞」)と述べて、両国の冷静な対応を求めた。このことは、国家間の政治的対立という事態に、文化による連帯の力を、武力対決抑止の方向に働かせる試みとして重要だった。 この二年間の特徴の一つとして、一般文芸誌上で活躍する若い作家が、現代青年の過酷な労働実態あるいは貧困の問題を視野に入れてきたことが挙げられる。新庄耕『狭小邸宅』(集英社)は、不動産会社の営業職の若者を主人公に、すさまじい業界の内面を描き、働くこと生きることを問いかけた。広小路尚祈「田園」(『すばる』一二年七月号)は、今日の若者の貧困や労働形態に着眼した作品であり、「寺部海岸の娘」(『文學界』一二年十二月号)も、ブラジル人と日本人の労働者同士の喧嘩を題材としている。どちらも社会的現実に目を向けた作品ではあるが、作者の目が派遣切りの本質や、外国人労働者の置かれている社会的位置といった構造的矛盾には届いてはいない。墨谷渉の「もし、世界がうすいピンクいろだったら」(『群像』一二年七月号)も、順調に会社生活を送ってきた主人公が、突然の経営危機の中に突き落とされ、それを契機にあらためて家族と仕事を見つめる、人生に対する誠実な姿勢の感じられる作品だが、人間と労働、障害児の置かれた状況の本質についての掘り下げはなされていない。こうした若手作家たちが、今日の厳しい労働現場の実態や貧困問題に着目し始めたことは評価されるべきことであるが、社会の構造、その要因とするところ、社会と人間の関係に踏み込む気配のないことは指摘しなくてはならない。単に現実を反映するにとどめず、どう生き抜き解決の方向を見出していくのかという問題意識を持ち、本質に踏み込んで書いていくことが望まれる。 このように一般文芸誌の作家たちの中に、ひと頃過剰になっていた遊戯的、消費的傾向が沈静化し、時代や現実に真摯に関わって書いていこうとする文学本来の在り方を取り戻す動きが出て来ていることは確かである。しかしながら一方には、何を言おうとしているのか、主題や意図を掴むことが困難な作品や、発想の奇抜さを競い合う、消費性だけを追求する作品も相変わらず量産されている。奇抜な趣向、暴力性やアンモラリティー、倒錯した性などで独自性を持たせないと、出版社に売り込めないという事情が背景にあるのかも知れない。同様のことで言えば、「神様 2011」が書かれたときに、「下手をすると時局的な問題に安易に反応して文学を裏切ったみたいなことを言われかねない」(一一年十二月「東京新聞」文芸この一年)と沼野充義が指摘したような文学関係者の体質や、文学は「要するに、人生もへったくれもあるものか」(一二年六月「朝日新聞」文芸時評)というような批評家の文学観が、若い世代の作家たちに与える影響を危惧せざるを得ない。 あらためて、近代文学から受け継いできた進歩的伝統を見つめ、文学とは人間にとって何なのかを考えていく必要があるだろう。 (2)この間、民主主義文学の創造は現実批判の精神をもって意欲的に取り組まれ、派遣切り、リストラなど、労働現場の実態と、打開のたたかいに立ちあがる労働者を作品世界に描出してきた。中でも、いすゞ自動車での実際の闘いをモデルに、大企業に一方的に雇い止めされた期間工、派遣労働者の闘い及び連帯を描き出した、田島一の長編『時の行路』(「しんぶん赤旗」連載・新日本出版社)は、この間の民主主義文学の貴重な成果であった。仙洞田一彦も、長編「再生」(「しんぶん赤旗」連載)で、経営者から突然倒産を告げられ、非組合員・第二組合と協力して、民事再生に向けて立ち上がった労働組合員たちを描き、難しい題材を作品化した。電機産業での執拗なリストラ面談を描いた、最上裕「陸橋を渡る足音」や、酪農ヘルパーの目からリストラの風潮を批判的に描いた、細野ひとふみ「ドリフト!」も注目を集めた。現代の労働現場における闘いや権利の主張は、閉塞の状況の中で確かに容易ではない。しかしそこに問題解決の方向を見出して立ちあがっている人たちは確実に存在する。その人間像を、どうリアルに描いていくのか、また、闘う人間たちの群像をどう描いていくのかということは、民主主義文学のみならず日本文学全体に課せられた重要な課題であろう。文学会では、多くの書き手が現役を退く時期に入っており、労働現場を描く作品の数は以前と比べて減ってきている。だが労働現場での闘いは、新しい時代を切り拓いていく大きな力である。綿密な取材と想像力を駆使して、この分野での創造活動を一層豊かなものにしていくことが、今求められている。 この間、あらためて過去の戦争を問い直す作品も生み出された。吉開那津子は「ハルハ河遠望」で、ノモンハンの激戦地を訪問し、そこから戦争の真実を掴もうとする主人公の思いを捉え、今日の精神で戦争を描くとは何かという問いを投げ掛けた。大浦ふみ子「佐世保へ」は被爆二世の問題を、間宮武「戸山ヶ原慕情」は戦時下の旧制中学校での友の死を、栗木英章「再生」は「原爆症認定集団訴訟」を作品化した。青木陽子の「紫陽花」は、「満州」での避難民の体験と、原発事故の被災地からの避難を重ねて描き出した。高橋久視『六月の雪』(さぬかいと叢書)は、中国大陸に派遣された兵士の視点で書かれた短編集である。作者に従軍体験はない。戦闘場面も含めての克明な描写は、体験者が残した資料の読み込みと、四度にわたる現地への取材によってなされた。あの戦争と戦後処理の曖昧さは、現代にまで重い問題を残している。また、戦争体験者が高齢化し、かつて米国との悲惨な戦争があったことさえ知らぬ若者が育っている。「国防軍」や「核武装」などという言葉が政治家の口に上ること自体、社会全体で見ればあの悲惨な戦争体験が風化していることを示している。今、戦争に関わるテーマでの創造・批評が、ますます重要さを増している。前述のように、一般文芸誌では戦後世代の作家が戦争に関わる作品を書き始めているが、民主主義文学の書き手にも、綿密な取材と関連資料の読み込み、想像力を豊かに働かせての大胆な創作が求められている。 差別と選別、競争原理の中に放り込まれ、再び上意下達の戦前的システムに支配され始めた学校現場の実態と、そこに生きる子どもと教師の苦悩は、この国の文学の極めて重要なテーマである。この間、現代の学校現場における教育の困難を映し出した作品が、数多く生み出された。佐田暢子は、管理統制がますます強まる現代の公立学校で、子どもと保護者とのトラブルに傷つく教師の姿を通して、本来学校とは何なのか、教師集団はどうあるべきなのかを問う長編「春の日の静かに照るは」(『女性のひろば』連載)を書いた。また松本喜久夫は、教師への道さえ閉ざす大阪での異常な思想支配の実態を「オーストリア王の帽子」で描き出し、青木資二は「若葉の繁る頃」で、苦悩する女性教員の姿を通して、学校現場に導入された人事考課の問題をあぶり出した。柴垣文子が長編『星につなぐ道』(『民主文学』連載・新日本出版社)で描き出したのは、恋愛や学生運動の中で自己変革した青年が、山間部の教員として民主教育のために奮闘する姿だった。橘あおいが看護学校を舞台に書いた「スタートライン」も、医療の世界の実態とともに、教育のあり方を追求する内容だった。この間の一般文芸誌を見渡しても、教育や学校現場の問題をテーマに書かれた作品はほとんど見当たらない。次の社会を担う人々をどう育てるのかという、この国の未来にとって極めて重要な問題を、文学が扱わなくて良いはずがない。民主主義文学の書き手が、教育問題を始め、この国の現実に鋭く切り込む作品を書き続けていることは、日本文学の今後にとって大きな意味を持つことである。 家族の中に映し出される現代をとらえた作品が生まれたことも、今期の特徴である。渥美二郎の長編「ステイケーション」(「しんぶん赤旗」連載)は、シングルファーザー教師の、娘や家族や自身を大事にする夏休みの過ごし方を通して、人間らしい生活とは何かを問い掛ける作品だった。真木和泉は、「家族の証明」(「しんぶん赤旗」連載)で、叔父の家族同様であった人物が、貧困ビジネスの宿泊所で死亡した事件の真相を探るなかで、主人公とその家族や関係者が、人間らしい結びつきを深めていく姿を描き出した。「顔」で第九回新人賞を受賞したたなかもとじは、受賞第一作「誓いの木」で、息子を突然の交通事故で失った父親と、今は離婚している母親が、激しい悲しみを乗り越えて再び心を結び合うまでを描いた。石井斉は「父の後ろ姿」で、父親を傷つけてしまった統合失調症の主人公が、苦悩の中で和解に向かう姿を描いた。工藤勢津子「遠い花火」は、報われることの少なかった生涯を終えた父親を、娘の目から捉えた作品である。須藤みゆきは「義父のかばん」で、十年以上家に閉じこもったままの夫を支えて生きる女性の思いを描いた。企業人としての闘いに破れた男と、養育する親を失った養護施設の子どもの触れ合いを描いた和田逸夫「たとえば、イッシーのこと」も、人と人との真のつながりのあり方を問い掛けた。新自由主義的な経済政策による社会の変貌によって、家族をはじめとする人間同士の関係が、大きく歪められている現実がある。どうしたら人間らしい関係を再生・維持することができるのか。これもまた文学の重いテーマである。 この他に、それぞれの書き手が、自分自身の過去の出来事や体験に目を向けての創作があった。人生における様々な体験や出会いをもとに紡ぎ出す創作の過程で、再びその時代を生き直すことは、書き手自身が人生の意味を捉え直す重要な精神活動と言える。こうした誠実な創作姿勢は、次世代の読者にとっても意義あるものとなるだろう。原健一の長編「草の根の通信使」(『民主文学』連載)は、韓国の大学へ日本語教師として派遣される過程で、過去から現在に至る日韓の関係への理解を深めていく主人公の姿を浮き彫りにした。高橋英男が「目白通り」で描き出したのは、新聞奨学生の過酷な労働現場であった。鶴岡征雄の「小説・冬敏之」は、ハンセン病患者への隔離政策と偏見、差別に対し、創作で闘い続けた冬敏之の半生を描いた、貴重な記録的小説である。塚原理恵は女性の尿失禁という、深刻だが表面化しにくい問題を「コンチネンス」で描き出した。柏朔司が「嵐の夜の出会い」に描き出したのは、「学テ闘争」の嵐の中で結ばれていく若い男女の姿だった。 一九六〇年代、七〇年代に青年期を送ったいわゆる団塊の世代の書き手が、その時代を見つめつつ現代を描いた作品も登場してきた。二十年前に共産党を離れていったかつての同志との再びの交流を描いた風見梢太郎の「四十年」が話題となったし、能島龍三は「裾野便り」で学生時代の運動の中で対立した友人との再会を描いた。丹羽郁生の「道」は、中学時代から交友のあった友人の自殺を通して、闘う道を選択したことの意味を捉え返そうとした。 野里征彦の長編「こつなぎ物語」第一部(『民主文学』連載)が完結した。先祖代々の村の共有地が突然私有地となり、生活できなくなった農民たちが起こした命懸けの闘いを描いた作品である。 創作だけでなくルポルタージュにも努力がなされた。先述の「3・11」「原発」関係のものの他に、労働争議やTPP問題、沖縄へのオスプレイ配備問題など、現代の重要課題を扱った作品が生み出された。 『民主文学』の連載エッセイでは、戦後の労働運動と国会議員としての活動を描いた秋元有子「戦後の長い旅」が完結した。 津上忠が『季論21』に九回にわたって連載した「【評伝】演出家・土方与志」が完結した。築地小劇場の創設者で演出家土方与志の、戦後の仕事とその歩みを追った貴重な記録であった。 民主主義文学運動におけるこの二年間の批評にも「3・11」は反映している。過去の戦争・被爆、今日における戦争責任をあらためて問い直す評論が書かれたことの背景には、「3・11」後をどう生きるかという問題意識があった。 岩渕剛は「文学者たちの〈十二月八日〉」を、北村隆志は「大江・岩波沖縄戦裁判が示したもの」を、新船海三郎は「武田麟太郎と『人民文庫』」をそれぞれ発表した。 特集「沖縄復帰40年と文学」では、尾西康充が「沖縄戦を書き継ぐこと」を、岩渕剛が「又吉栄喜の沖縄」を書いた。乙部宗徳の「沖縄の『誇り』」(『季論21』二〇一二年夏号)は、沖縄県民の揺るがぬ基地撤去の意思をとらえた。 「いま、原爆文学を読む」特集では、澤田章子「原民喜『夏の花』三部作を読み直す」、小林昭「井伏鱒二『かきつばた』のこと」、松木新「林京子が問いかけるもの」、山形暁子「山口勇子『荒れ地野ばら』を再読して」が発表された。 特集「文学としての戦争責任」には、戦後世代の中堅批評家三名が取り組み、北村隆志「文学者は戦争責任をどう追及したか」、石井正人「ドイツにおける戦争責任の追及と文学者」、岩渕剛「戦争の時代と戦後のつながり」が発表された。 プロレタリア文学をはじめとした過去の遺産の捉え直しもおこなわれた。尾西康充「なぜ多喜二は小樽に移住したか」、小林昭「石川啄木の没後百年」、下田城玄「石川啄木の思想形成」、尾西康充「『防雪林』から『不在地主』へ」などが書かれた。 一二年三月に吉本隆明が亡くなったことで、マスメディアでは「戦後思想界の巨人」などとして報道した。三浦健治の「吉本隆明の思想とは何だったのか」は、吉本の思想と行動の本質を明らかにして現代思潮と切り結ぶものとなった。 第七回手塚英孝賞は、久野通広「谷中村鉱毒事件の波紋 ―伊藤野枝『転機』」が受賞した。 大震災・原発事故のあったこの国の人間と社会のありようを、過去から現在まで深く見つめて、その真実に迫るべきことは批評も同じである。この間、民主主義文学の評論の中に、現代日本文学を全体として論じたものが少ないという実態があった。評論の立場から日本文学の動きをどう見るのかという文学動向論は、創造批評の発展にとって重要な意味を持つ。それを追求する中で、民主主義文学の立ち位置が浮き彫りになり、何をどう書いていったらいいのかという議論も活発になるのではないか。批評の書き手のそれぞれの興味関心、問題意識は当然重視されなくてはならないが、一方で、現代日本文学全体の特徴と動きを明らかにし、その中での民主主義文学の課題を明らかにすることが求められている。このことは、批評家の共同作業も視野に入れて進めていく必要があるだろう。 個々の的確な作品評はもちろん必要だが、それが良し悪しの指摘だけに留まっていては批評の発展はない。どういう意味で良いのか、どういう意味で良くないのか、評者の具体的論理立てが不可欠である。書き手の挑戦を後押しするような、創作方法にも立ち入った、理論的探求を進める必要がある。また、批評が単発的になっていることも、論議が深まらない要因だと考えられる。活発な意見交換をおこなうことにより理論的深まりをつくっていきたい。併せて民主文学の作家論への取り組みも求められている。 文学運動全体として批評家の層が薄いというのは実態だが、一三年二月号の多喜二没後八十年特集では、計八編の評論が掲載され、新旧織り交ぜての多彩な執筆陣となった。そうした人々の中から、文芸時評を担当する批評家を育てていく必要もあるだろう。また、小説の書き手についても、批評に関心を持ち評論を書く力を身に着けていくことが求められている。 この間の会員の到達を示す「民主文学館」の企画では、塚原理恵『孤独のかたち』、茂木文子『マンゴスチンの実は赤く』、大田努『小林多喜二の文学と運動』、小縄龍一『夕張の郷』、岡田宜紀『司馬遷の妻』の五冊が刊行された。この他、この二年間には多くの会員の著作が刊行された。一部を記せば、新船海三郎『文学の意思、批評の言葉』、野里征彦『罹災の光景』、なかむらみのる『阿賀野川』、篠垤潔『がん旅情 終焉編』、橘あおい『スプーン一匙』、北原耕也『霜天の虹』、尾西康充『「或る女」とアメリカ体験』、相沢一郎『父の微笑』、林田遼子『風綿』、風見梢太郎『海蝕台地』、成澤榮壽『加藤拓川』、秋元有子『時にありて』、山中光一『ある現代史』などである。 四、 組織・財政活動の現状と課題 (1)二〇一一年十月の第二回幹事会で提起した拡大大運動は、全国各地で開催された「連絡懇談会」を軸にして大きく展開し、定期読者の拡大については、一時的であっても実売三千部の回復を果たすことができた。特に徳島支部は百数十部もの拡大を実現させ、全国の牽引車的役割を果たした。大運動での全国各地の奮闘によって得られたこの成果は、大変貴重なものであった。しかしながら準会員については、減少傾向に歯止めがかからないという深刻な状況にある。次代の創造・批評の担い手を育てるという意味でも、この傾向について深く分析をすすめ、適切な対策を施していくことが急務である。また、定期購読者についても、三千部を常態化し安定的に維持する所にまでは至っていない。取次会社である新日本図書経由の配本部数は、今後も漸減を続けることが予想される。 こうした状況を改善する中心的な道は、創造の力の向上による魅力ある雑誌としての内容の一層の充実である。時宜を得た企画と、読みたくなる『民主文学』づくりのために、編集委員会と常任幹事会はさらに力を尽くす。また会の総ての書き手には、『民主文学』への掲載を目指して力の籠った作品を書き、積極的に投稿することが求められている。全国誌を持つ文学団体の一員として、志高く創造・批評活動に向かいたい。 同時に、定期読者と会員拡大については、「増やさなければ減る」という運動の鉄則を踏まえて、会の総ての構成員が、持続的・日常的に取り組んでいかなくてはならない。 (2) 第二十回大会の規約改正によって、支部の役割や位置づけが規約上明確にされて以来、支部の結成や再建が自覚的に取り組まれ、貴重な成果を上げてきた。任意に作られるものであっても、創立以来の文学運動の重要な土台となっていた支部活動を明確に規定したこの規約改正の意義は大きい。高齢化などによって解散・休止する支部も多くなる一方で、それぞれの地域の書き手や文学愛好者の結集を目指した新たな支部結成の取り組みは、文学運動全体に活気をもたらす貴重なものである。この間、福島県会津で新支部が結成され、また茨城県や新潟県魚沼で新しい支部結成に向けての取り組みが行われている。徳島支部、宮崎支部などの経験で明らかなように、新しい支部が生まれる過程では、運動と組織が大きく広がる可能性がある。空白県での結成や活動停止中の支部の再建も視野に入れながら、組織部地方担当と連携して、引き続き取り組みを強めていくことが求められている。 (3) ここ数次の大会でも強調されているが、優れた作品や批評を生み出す上でも、組織の維持発展という意味でも、支部活動の充実強化は非常に重要である。とりわけ今日求められるのは、『民主文学』や支部誌の作品、近現代の名作などの合評を中心とした例会の充実である。例会を、創作の手法など、文学の基本をしっかり学び取れる場にすること、豊かな深い作品合評・議論を通して鑑賞や批評の力を高め、創造水準の向上に役立つ場にすることである。そのためには、事前の準備や運営の仕方を一層工夫することが不可欠である。支部誌には『民主文学』誌上に転載される力の籠った優れた作品が発表されることが少なくない一方で、今後の努力が必要な作品も見受けられる。そうした状況を克服するためには、例会の充実と併行して、編集態勢の集団化や委員会機能の強化等が求められる。また、支部ニュースの定期的発行は、支部員同士の交流のみならず、支部の周りの多くの文学愛好者との関係を緊密なものにする点でも、重要な取り組みである。常任幹事会は、そうした組織的な面への援助はもちろん、新しい読者・書き手の創出のために、支部訪問等で積極的に支部への援助をおこなっていく。 (4)文学運動にとって生命ともいえる創造の水準向上を目指して、文学教室・創作専科の地方開催を強力に推進していかなくてはならない。独自の創作専科の開催を続けている北海道では、次々と新しい書き手が生まれ、その作品が『民主文学』に掲載されている。創作の力を伸ばすには、何よりも文学教室や創作専科で体験的に学習することが重要である。開催にあたっては、その地方や支部の実態に合わせた形態を柔軟に工夫していく。また、その地方や支部の状況によっては、組織活動強化募金からの捻出による財政的支援を考慮する。「作者と読者の会」地域開催への常任幹事派遣ならびに宣伝費負担なども積極的に受け容れていく。 (5)二〇一二年七月「3・11後の日本社会と文学」をテーマに、被災地である宮城県の秋保温泉で第二十二回全国研究集会を開催した。参加者は九十九人と例年よりも少なかったが、原発事故に苦しむ福島県の実態を憲法から見直す吉原泰助氏の講演や、オプション企画の津波被災地である仙台荒浜・閖上地区の視察等、被災地での集会ならではの内容となった。 「労働者の現状と文学研究会」や「批評を考える会」が定例的に開催されてきたことも重要である。こうした自主的な研究と学習の場をさらに充実させていかなくてはならない。 各地で開催されている地方研究集会は、その地方の書き手にとっては創造・批評の力をつけるための重要な機会である。首都圏において、これまで県独自の研究集会がなかった千葉県で、各支部が力を合わせて今年初めて研究集会を開催した。文学会の中には、書けるようになりたい、学びたいという要求は強い。各地の会員と支部が知恵と力を寄せ合い、地方研究集会の充実と発展をはかることが求められる。その支援のために幹事会・常任幹事会も力を尽くす。 小林多喜二没後八十年にあたり、多喜二・百合子研究会との共催、日本ペンクラブ等の協賛を受けて「多喜二の文学を語る集い」を、一三年三月十日東京都豊島区「みらい座いけぶくろ」で開催し、五百人を超える参加者を得て成功させた。各種集会が重なる条件のもとで、好評を博した集いの意義は大きい。 母親大会実行委員会に参加し、広島と新潟の母親大会では現地の文学会員の協力も得て、文学の分科会を好評のうちに運営した。 民主主義文学運動の存在を、多面的に発信していくことは重要である。この間、従来の「民主文学えひめの会支部」「名古屋支部」に加えて、「札幌支部」「京都支部」「岡山支部」が新たにホームページを開設した。ウェブ上で小説・評論を公開し支部の活性化につながった経験も生まれており、積極的に推進していくことが望まれる。 (6) 会の年齢構成、財政状況等を考えた時、五年、十年先を展望しての文学運動のあり方を真剣に模索していく必要がある。文学運動の明日を担う新しい会員・準会員の拡大は待ったなしの課題である。常任幹事会としても、広範な若い世代の結集をめざして、全国展開まで視野に入れて「若い世代の文学カフェ」の持続的開催を追求してゆく。若い世代の関心を呼ぶ他文芸誌の作品、また多喜二やプロレタリア文学の作品などにも目を向けて、文学の楽しさを味わってもらう企画として積極的に考えていきたい。 さらに二〇一三年内に、「第四回若い世代の文学研究集会2013」の開催を目指す。こうした研究集会や文学カフェに書く立場で参加した人たちが、文学への関心や意欲を持続させ、書き手としてさらに力をつけ成長していくためには、一人ひとりの日常的な研鑽と共に、創作活動を励まし支える方策も必要である。支部活動の活性化や文学教室・創作専科の地域開催、無料創作通信などと連携させて、単発的な企画を継続的な若手育成に結びつけ、作品としても結実させられるよう配慮する。 併せて「心さわぐシニア文学サロン」も重視していく。「六〇・七〇年代と文学創造」をテーマに、広くシニア層に働きかけ、六十五歳以後の層を対象にした魅力ある企画として持続的に開いてゆく。 若い世代、あるいは新しい書き手を運動に迎え入れることと関連して、新人賞を毎年募集することとしたい。今回も含め、新人賞の応募者は会の外の人が多い。会員年齢の高齢化という組織実態を前にして、新しい書き手を生み出すことはいま喫緊の課題となっている。現在の隔年の実施では組織的減少に追い付かないおそれがある。また毎年の募集となれば、そこをめざしての一年単位での頑張りも生まれるだろう。そのことによって、会外から新しい人を迎え入れるだけでなく、会内の書き手の創作力量向上にもつながることが期待できる。 (7) 二十四大会期の財政は、一般会計、出版会計ともに予算を超過達成することができた。これは、二十三大会期当初から続く赤字傾向の打開に向けて一丸となって取り組んだ、組織拡大運動および『民主文学』製造費の低減化や諸経費の支出削減措置等がもたらした結果であり、貴重な成果といえる。しかしながら本予算は、前大会期より全体で四パーセントの支出減を目標に立てられたものであり、この結果は文学会としての運営のぎりぎりの線を確保したというのが率直なところである。会全体を見た場合、組織構造からくる経営上の問題が解決したわけではなく、あくまで一過性のものにすぎない。引き続き気を緩めることなく、組織拡大をはじめとする諸課題に全力を尽くすことが求められている。 昨今の組織の推移実態をふまえて、二〇一七年にはどのような財政状況になるかのシミュレーションをおこなってきたが、来期の途中から消費税増税が実施されることになれば、支出全般に大きな影響が及ぶなど、厳しい先行きが予測されている。今大会予算においては、新たな削減には踏み込まないものの、大会後の経過を見極め、しかるべき措置を迅速に講じていきたい。 会の正常な運営を妨げる滞納一掃の問題には特別の手立てを講じ対処してきたが、まだ十分な解決が得られていない。滞納を生まない実務の強化を図るとともに、引き続き会員・準会員・読者各位には前納への協力をお願いしたい。 いま私たちは、文学会をどう存続していくかの局面に立たされている。財政面に現われている事態を率直に見つめ、会全体で共通の認識とすることにより、長期的展望のもとに困難を乗り越える文学運動の構築が差し迫った課題と言える。 活字離れ、出版不況、純文学の衰退が言われて久しい。貧困層の増大とともに教育の格差も拡がり続け、文章による自己表現はおろか、文学作品を読み解くことも困難な青年が多くなっている。しかしながら、そうした深刻な状況があるからといって、人間社会と人生から、文学や文字文化が衰退していっていいはずがない。むしろそうした実態があるからこそ、真に広範な層を視野に文学創造の活性化を図り、人々の間に文学の魅力を広めていくことが求められている。私たちの文学運動は、日本文学の価値ある遺産と積極的な伝統、なかでもプロレタリア文学のすぐれた到達と戦後民主主義文学運動の成果を受け継ぎ、半世紀近くにわたって創造批評と文学普及の活動を真摯に追求してきた。情勢はまさにわれわれの運動の出番を告げている。さまざまな困難はあるが、文学会の全国総ての構成員が力の限り書く気概をもって、運動を一層大きく進めていこうではないか。 |
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