「作者と読者の会」 2015年9月号、10月号 


 
 十月二日(金)午後六時から、文学会事務所で開催。藤咲徳治「ホロすけが鳴く日」を最上裕氏が、たなかもとじ「意見陳述」を丹羽郁生氏が報告した。両作者を含め参加者は十五人。その他にスカイプで二人が参加した。司会は宮本阿伎氏。
 「ホロすけが鳴く日」について最上氏は、福島第一原発事故の被災地が復興し、再び住民が自然と調和した生き方のできるように願っている中で、次々と再稼働が進められようとしている今、被災者の思いを伝える貴重な作品であるとし、民話や父の創作ホロすけの話を巧みに挿入して原発反対を訴えることに感動がある。ただ時間の不整合と思われる点が気になったと報告した。
 討論では、主人公が父の残したものを辿りながら原発への認識を深めていくというところにこの小説のテーマがある。父の残したものとしてカセットテープは使いすぎではないか。ノートだけで、民話とホロすけの二つをいかして描くことができるのではないか。事故から八ヶ月後一時帰宅する町、実家の様子は生々しく描写されているが、陸の孤島といわれる町に原発が誘致される時の様子は説明になっている。農協に勤める父と町民との会話は感動的だがカセットテープから出てくるのが、唐突すぎないかなどの意見が出た。作者は被災者の思い、ホロすけの鳴く日は必ずくるとの思いを描きたかった。ホロすけの話はその被災者の心を思っての作者の創作だが、父の苦悩は深く描けていないと述べた。
 「意見陳述」について丹羽氏は、津波、原発、避難生活、家族離散、被災者の心の傷、政治と東電と社会の現実、命と暮らしの再生と復活という大テーマにリアルに迫った作者の文学精神の面目躍如たるものを感じる作品と報告。続けて、法廷場面と回想場面を交互に入れこんだ工夫も生きているが、登場人物十七人は多すぎる、何度も前のページをめくったと述べた。
 討論では、これ以上典型的なものはない舞台に典型的な人物を設定しているが、裁判で何を求めているのか不明、「意見陳述」のタイトルがわからない、裁判より主人公の変化にしぼった方がいいのではないか、国、東電を問いつめる母親の強さが、「闘わなければ棄民として終わる」の決意に出ているが、原発で働く夫が、父として夫として愛する者への苦悩も描きたい、これだけの内容を六十一枚では無理ではないかなどの意見が出された。作者からは、何を何故書くかの基本は生きることへの賛歌である、生きるものを阻害するものへの怒りがモチーフであり、残されたもの、生かされたものの定めとして、被災者のひたむきな生き方を描きたかった。が、度々の取材で出会った人たちの重い言葉が、生かしきれていない、これをぶった切って、もう一度もっと長いものに挑戦したいと述べた。
 忘れてはならない原発事故を、さまざまな切り口から文学として描く課題の重要さが、参加者の胸にずしりと落ちた会だった。
       
 (寺田美智子) 
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