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三月二十七日の作者と読者の会は、佐田暢子「水天の月」、矢嶋直武「犬と鈴と老人」の二作品を取り上げた。参加者は十三名。
初めに、たなかもとじ氏が「犬と鈴と老人」を報告し合評した。文章がスマートで読みやすい。起承転結がはっきりしている。高村と張麗との描写がほしい。愛らしい張麗が変わっていく過程は迫力があり、徐々にテーマが浮き彫りにされていった。主人公は「ぼく」だと思うのだが「老人」でもおかしくはない。ただ「ぼく」の苦悩や葛藤が弱いように思う。テーマは「ヘイトスピーチの現状とその起因」にあると思うなどとの報告があった。それを受けての討論では次のような意見が出された。読みやすい。描写が巧みである。たしかな文章であることを感じる。張麗のような苦境におかれている人たちのことが、この作品を通じて分かった。
一方、長所を認めつつも、肝心な人物張麗のことが高村からの説明でしか伝えられないのが、はたしていい文章と言えるのかという疑問も出た。
作者の矢嶋氏は、張麗が帰って行かざるを得ない無念さ、日本人であるわたしがどう受け止めたら良いかを、日本語で言葉にしたかったなどと語られた。
「水天の月」を工藤勢津子氏が報告した。医学が日々めざましく進歩し、高度な延命治療が可能な時代になってきているいま、命の尊厳、終末期の医療はどうあるべきかを考えさせる重いテーマを問う作品。病状の進行、介護の具体的な様子について丁寧に書いている。方言が生きている。しかし、テーマ、主人公の思いを読者が共感を持って受け止め得るように描かれているかという点では不十分であると言わざるを得ない。それは、人工呼吸器をつけるかどうか、気管切開に切り替える、胃瘻をつける、カテーテルで痰を引くところ、房江の両手を拘束するところなどが、ほとんど逡巡なく描かれているからではないかなどとの報告があった。
討論では次のような意見が出された。人物が迷ったり苦しんだりするのが読み取れない物足りなさがある。巧みな文章で、特に序の部分がよく、要領よく書かれている。自分の死は房江のように迎えたくない、しあわせな死ではなかったと強く感じた。逡巡のない人物を意識して書いたのではないかという意見も出された。一方、作者は最後の十数行を言いたかったのではないか、迷いや悩みはそこに表現されていると評価する意見もあった。
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