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三月二十五日、十二名の出席で開かれました。取り上げた作品は能島龍三氏の「審問」と鶴岡征雄氏の「銀座にて」の二作品。司会は丹羽郁生氏。
「審問」については、「都教委が卒業式で日の丸、君が代を強制する通達を出すなかで、主人公の属する日本共産党の組織では、対応について個人の判断に任せることにして、主人公は起立することにした。しかし、実際におこなわれた式は、今までの子ども中心のものから大きく変えられてしまう。そのなかで不起立を貫き、戒告処分を受けた非党員の同僚のために、主人公は処分撤回のための人事委員会での審問に証人として立つ。歴史の法廷に対してやましいことはしなかったという主人公の姿を描くことと、式が子ども不在になるという教育面の問題を提起することで、作者は現在進行の問題に挑戦した」との岩渕剛氏の報告がありました。
参加者からは、「裁判の過程で、教職員の苦悩が描かれている」、「大きなテーマに取り組んだ意欲を買いたい」、「主人公の葛藤が伝わってくるが、教育の現場を知らない人にとっては、何が問題かがわかりにくいのではないか」、「保護者を登場させてはどうか」、「日の丸、君が代と中国侵略との関係が若い人たちには理解され難いのではないか」、「子ども達にとって理想の卒業式はどうあるべきかを考えたい」などの意見が出され、作者からは、日の丸、君が代の強制をめぐっての党員教師の苦悩を書きたかった、との発言がありました。
「銀座にて」では都合で欠席した三浦光則氏の文書報告は「娘が八歳の時に離婚した主人公が、別居している娘と二年振りに銀座で会う。その時の会話で、娘の祖母松代が、自分の被爆体験を語っているのを知り、『私』は松代の遺言にも似た決意を知る。『私』の離婚をめぐる話と、娘の自営業者としての悪戦苦闘と、六十五年もの間胸に秘めていた恨みを遺書代わりに証言した松代の思いが、一見私小説のような展開のなかに重なり合わせて語られていて、読者に深い思いを訴えかけていると思われる」と結んでいます。
参加者からは、「短い文章のなかによくまとめられている」、「多くの人物が出てくるが、混乱なく読者に入ってくる」、「登場人物の修羅場が凝縮されている」、「方言のリアリティーが不足している」、「『私』自身の核兵器廃絶への思いがもう少し描きこまれたほうがいい」、「捨てて来た娘に対する父親の気持ちの変化には、祖母の存在が大きいのではないか」。
作者に対して、タイトルの決め方、登場人物の名前の決め方など実践の上での質問も出され、交流の場になりました。
最後に、作者から、一般家庭にはない私と娘との関係、四十歳になった娘を見る父親の心境を描きたかった、との発言がありました。
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