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一月二十九日、仙洞田一彦さんの短篇「失業家族」(本誌一月号)、井上通泰さんの中篇「葉桜の頃」(同二月号)の「作者と読者の会」が開かれ、登場人物のリアリティや物語を支える事実の重み等について議論を交わしました。参加者は十三名。
井上文夫さんは、「失業家族」の特徴をレジュメにまとめ、「ユーモアと哀感があり、一幕の劇を見ているよう。相づちを打って読んだ」と報告。さらに三人家族(父、母、息子)が全員失業するような今日の状況を「父親の個人的な問題としてかたづけていいのか」と問題提起しました。
参加者からは、「派遣満了の息子の気持ちがわかる。仕事がないという状況に怒りを覚える。物語の先を考えると絶望的だ」「深刻な問題を深刻に書かない方法は成功しているが、文学の深みに欠ける」「閉塞した時代にユーモアが書けることは希望だ」等の意見が出ました。作者の仙洞田さんは「中流家庭が一夜にして崩壊する事態を描きたかった。同時に、いまどこへ行っても女性たちの元気な姿に出会い、妻・愛子のバイタリティーを形象することで物語の突破口にしたかった」とのべました。
「葉桜の頃」の報告に立った能島龍三さんは、「あの戦争を問うというモチーフと、ひとつの命と時代の終焉を描くという主題に支えられた、破たんのない物語」と評しつつ、描かれた戦争と特攻隊には多くの事実誤認があると指摘。そして「時代考証が欠けたため、小説が右派に利用されたり、遺族を冒涜しかねず、たいへん複雑な気持ちだ」とのべました。それに対して、作者の井上さんは「指摘の通りだ。モデルに引きずられて事実の確認を怠った。反省している」と応じ、丹羽編集長も「戦争末期になるほど組織の改変が錯綜し、さまざまな発言や資料が出る。その整合作業を落としてしまった」と補足しました。
参加者からは「事実の問題だけでなく、あの戦争をどうとらえるかという作者の立場が問われている」「どこまで事実を確認して描けばいいのか」「魅力的なモデルがいるなら、なぜルポにしなかったのか」等の意見が出され、はからずも「小説とは何か」という大問題を考える機会となりました。
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