「作者と読者の会」 2010年11月号 



 十月二十九日(金)、鶴岡征雄「単線駅舎のある町で」、窪町泉「音叉」(ともに十一月号)をテーマに、十二名が参加して行われた。
 「単線駅舎のある町で」について報告者工藤威氏は、この作品は十二個の部分の各冒頭に簡潔に結論めいた文を置き、続いて中身を深めていく描写の仕方に特徴があり、病弱で休みがちな小学四年生の花森瓢太が、婚外子の身上を理由にいじめに遭い転校を強いられた、早熟な元同級生萩山風子に寄せる淡い思いがよく描かれており、少年〜青年期の女性への憧れを四十年余に亘り書き続けてきた作者の特徴が滲み出た作品と言えると指摘した。
 同時に、戦後七年という庶民誰もが貧しかった時代設定の中で、ヨイトマケの賃金や葉書の額・売血など生活をきっちりと描写し生活感が伝わってくるが、小学四年の瓢太の目から見た風子の着物の描写が詳しくてリアル過ぎるなど、難点も感じられると述べた。
 討論では、「物語として何が言いたかったのか物足りない」という感想が出され、「どう終るか気にしつつ読んだが、赤飯の話で少年が『初潮』という言葉を覚えたときのことを書きたかったのかと思った」「病弱で休みがちな瓢太と、芸者の子妾の子として蔑まれる風子という、足りないものがある者どうしが惹かれあう話なのに、心がどう通い合っていくかの描写が弱く、そのモチーフの弱さが物足りなさに通じている。また、瓢太の視点の中に現在の作者の視点が混じってしまっている」などの意見が交わされた。
 窪町泉「音叉」について報告者堺田鶴子氏は、沖縄返還直後という時代の世相、当時ティーンエイジのとば口にいた由貴子・ルミの友情や異性観、その出口にいた健一の心理がさっぱりと、巧まざるユーモアをもって描かれており、由貴子が健一から受けた言葉の中に作者の芸術観も窺える、みずみずしさを感じる作品であると指摘した。
 討論では、「ヒジカタ」と呼ばれる健一像について「色男過ぎる」「一面でとても図々しい」など反感も出た一方、「十三歳の女心を描く点では面白い、育ちがよい素直な十九歳の人なら健一像もありうるが、背景を書き込む必要がある」という意見も出た。同時にリアリティーについて、家族がみな人が良すぎて厚みが乏しい、ギターを弾いて芸術で身を立てようとする人が、手を酷使する道路工夫を仕事として選ぶか、道路工夫が病気で倒れ込んできてどうなるかという話の展開なら、現代の非正規労働者の現実を念頭に置いて書く必要はないか、という疑問も出された。
  
(松井 活) 
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