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一月三十日、「作者と読者の会」は二人の作者を含めて十九人の参加で、一月号の能島龍三「オブセッション」と二月号の塚原理恵「霧のむこう」を、宮本阿伎さんの司会で話し合った。
はじめに平瀬誠一氏より「オブセッション」について、──強迫性障害児、中学二年の五十嵐隆太は、歩行を恐怖して歩幅が小さく一分間に一メートルしか進めない。主人公の私は、特別支援学校の教師で隆太の担任。私は発病の原因を父親の強烈なエリート指向にあると判断した。ある時から隆太は普通に歩けるようになった。父親が単身赴任で北海道へ行ったのだ。隆太は明朗になり楽しそうだ──と、あらすじを紹介。感想として、──学校と教師、母親の役割が各々明確に描かれ、しがないサラリーマンの父親へ寄せる作者のおもいも伝わってくる──と、報告。そのあとの話し合いでは、隆太が歩けるようになって本当によかったが、何か賦に落ちない。父親不在の方がいいことになってしまう。作者は、原因は父親にあるとしてその枠内で話を展開しているが、はたしてそうだろうか。父親に焦点をあてたら社会が見えてくるし、胸に落ちるのではないか。
つづいて吉開那津子氏が「霧のむこう」について、おおよそつぎのように報告した。──公立病院の看護師長で半年後に定年を迎える翠は、乳がん治療のため専門病院へ入院。そこで恋人だった医者の宇佐見と再会。四十年前、理由も告げずに離れていった宇佐見は、そのわけを語りだす。国家試験阻止闘争のさなか、自分は受験し、医者になった。君が闘争に参加していると思った。その一途さがこわくて、うしろめたくて離れたのだといい、いまは地域医療に尽しているという。翠は、宇佐見の勘違いに驚いたが話はいつの間にか医療問題へと移っていく。恋愛も医療も中途半端だ──。話し合いでは、──この小説は、恋愛を書いた方がよかったと思う。翠にとって、この恋愛はどんな意味があったのか。いま翠は、幸せな家庭があり安定している。そういうなかで宇佐見と出会ったということは、どんな意味があるのか。読者は納得しにくい。作者はむしろ医療問題を書きたかったのではないか。その入口にかつての恋愛を使ったと思われる。読者には恋愛の方が印象に残る。徹底して恋愛を書いたらどうだろう──など、たくさんの意見、感想が話し合われた。 |
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