「作者と読者の会」 2008年4月号 



 三月二十八日、「民主文学」四月号の「作者と読者の会」が行われ、遠路熊本からの読者も含め二十四人が参加した。能島龍三氏の司会で、小川京子「継母」を澤田章子氏が、小野才八郎「秋風記」を岩渕剛氏がそれぞれ報告した。
 「継母」は、娘の敦子が幼時期の二つの記憶の真相をたどる作品である。澤田氏はこれを構成に沿って丁寧に報告された。敗戦の年、満州でソ連急襲の折、赤子であった実子を失った継母久代は、四歳の敦子を連れて夫の郷里へ引き揚げたが夫は戦死。仕立物で暮らす生活は貧しく、気性の激しい継親(ままおや)と継子(ままこ)の仲は葛藤をはらんだものだった。高校進学を諦め切れず悩む敦子が「死んだ方がまし」と呟いたのを、聞き咎めた久代が激昂する。狼狽する敦子に、久代は「二度と死ぬなどと言うでない」と約束させる。澤田氏は、ここまでの展開に、実子と夫を亡くした久代の、苦悩に耐え敦子を育てる気丈な姿につらい感動を覚えると話した。伯父の援助で高校への進学を果たした敦子は、戦争体験を聞き書きする活動を通して、幼児期の記憶を解明しようとし、久代に問う。その真剣さを理解した久代は、手紙によって、赤子の泣声を封じざるを得なかったいきさつと敦子を一時中国人に預けたことを告白する。澤田氏は「手紙形式」が安易になり易いことに触れながらも、久代が敗戦の惨禍のなかで背負った心の傷をかかえながら、敦子の存在とその成長とともに生きてのりこえてきた心情が現れていることを評価した。また、結末部では支部誌にはなかった書き直しも行われ、戦争への告発に止まらず、命の尊さを訴える作者の思いがみごとに結実されていると指摘した。討論では、久代像が良い。ただ、読み始めから結末が示唆される書き方は一考を要す。表現上、主・述語の関係が不適。これが感動を殺いだ等の指摘もあった。作者は種々のご指摘に感謝する。創作過程では、もっぱら人々が戦後をどう生きたかを考え、そのことを書いたつもりですと話した。
 「秋風記」を報告した岩渕剛氏は、作者は太宰治に師事し、一九二〇年生れである。王子野戦病院について一九六五年に書いたルポルタージュが著名であると紹介し、作者がイタコを素材にした作品に「恐山・母と妹」(「民主文学」一九七七年二月号)「ボサマ街道」(同一九七八年二月号)があること、稲沢潤子氏が三月の「文芸時評」で「秋風記」とともに作者の短編集「イタコ無明」を取り上げていることにも触れた。「秋風記」の舞台は青森であり、時代は一九一八年に設定されている。盲目となって棄てられたスエが、三人目の実子スワを手放し、自立のためイタコに成らざるを得なかった過酷な経緯が語られるが、折しもこの年は米騒動の年であった。もと夫の利一郎がイタコとなったスエに偶然出会い、その変わり果てた姿に驚く。九十年ほど前の日本の貧困の現実を知ることができると話した。討論では、素材に興味をもった、この分量で面白い作品になった、津軽方言が生きている。また、随所に作者が顔を出すのは説明的ではないかという意見もあった。作者は、久し振りに書いたため、分量が発表時の倍ほどになったが、結局削ることとなった。私は大正生れだが、大正のことを知らな過ぎる。米騒動、シベリア出兵などのことを書きたかった。この作品はチェホフの作品からヒントを得たなどと話した。
  
 (土屋俊郎) 
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