■ 「近・現代文学研究会」 第103回(2008年9月) ■ |
林 京子 「祭りの場」 | ||
九月十八日、第一〇三回「近・現代文学研究会」が文学会会議室で行われた。この回は林京子「祭りの場」が取り上げられ、長谷川綾子氏が報告にあたった。参加者は報告者も含め九名だった。 林京子「長崎からの発信」、三菱兵器大橋工場内部の被爆後の写真コピー、被爆後林京子が金毘羅山中を避難した道筋、「祭りの場」の手書き原稿コピー(冒頭部分)、林京子「略年譜」、「文芸首都」終刊号掲載作品「原爆と首都」(当時の筆名・小野京)等々が資料として配布され、長谷川氏は最初に「祭りの場」以降の重要作品によって林京子が八月九日の語り部として一貫していることを指摘し、そのうえで彼女の作品群に四つの峰を見たいと、次のように話を進めた。 @林(本名宮崎)京子は一九三〇年八月二十八日、長崎市に生れたが、上海が父親の勤務地となったため、十四歳で帰国するまで上海に暮らした。連作小説「ミッシェルの口紅」と旅行記『上海』の背景にはこの時期の体験があり、作品群の峰の一つを成している。 A一九四五年二月、上海に父を残し一家は帰国。母と姉妹三人は諫早に疎開したが、長崎高等女学校に編入した彼女は長崎市内に下宿。そのため一家で唯一人、学徒動員中の三菱兵器大橋工場で被爆することとなった。 一九六二年、林京子は保高徳蔵主宰の「文芸首都」に加わり、一九七五年四月、被爆三十年をへて、八月九日の長崎を作品化した「祭りの場」で群像新人賞を受賞。七月には同作品で第七十三回芥川賞を受賞した。「祭りの場」以降、「無きが如き」などを経て「長い時間をかけた人間の経験」、「トリニティからトリニティへ」にいたる作品群はいうまでもなく最も林京子らしい大きな峰を形成している。 B林京子は一九四七年三月、長崎医大付属厚生女学部専科に進学したが中退。一九五一年十月、林俊夫と結婚。上京。一九五三年三月、長男誕生。一九七四年十一月、林俊夫と離婚した。林京子のこの時期の歩みは「三界の家」(短篇集)、「谷間」など家族の問題を描いた作品群の背景となり、三つ目の峰を形成している。 Cアメリカ滞在の三年間が生み出した「ヴァージニアの蒼い空」などのエッセイ集は四つ目の峰である。 『上海』などにはかつては加害者の側にいたという自覚が示されている。また「林京子の歩み」を聞くことができてよかったなど、報告にそった討論では、よく準備された長谷川氏の報告を評価する声が上がった。 |
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(土屋俊郎) |