■ 「近・現代文学研究会」 第101回(2008年5月) ■ |
竹西寛子 「管絃祭」 | ||
第101回「近・現代文学研究会」が五月十五日、文学会会議室で行われた。竹西寛子「管絃祭」が取り上げられ、堺田鶴子氏が報告にあたった。参加者は報告者も含め十二人だった。 堺氏は資料として、「地図」・被爆当時の広島、竹西寛子「松尾芭蕉集」(部分)、「厳島神社管絃祭経路図」を配布し、まず竹西寛子の生立ちから被爆まで、上京後大学で国文学を専攻、出版社で『古典日本文学全集』の編集などを経験し、最初の古典評論「往還の記」とならんで初の小説「儀式」を発表。その後十五年をへて「管絃祭」を、さらに現在までに多数の評論・小説・随想を書いて来た、とその作家像にふれた。 次いで、「管絃祭」について、表にした《長編小説『管絃祭』の構造》を示し、母親セキの通夜から書き始められた物語を、被爆前―原爆投下―被爆後―セキの通夜(春)―(夏)(秋)―翌年春―翌年夏―番外、といった時間順に並べ直して、各章の内容を概説した。さらに「管絃祭」が第十七回女流文学賞を受賞した時の井上靖評も紹介するなど、そのうえで考えてほしい、といくつかの論点を提示した。@セキはどうして「オカゲンサン」を見に行かなかったのかA主人公有紀子はどうして宏の求婚を拒んだのかB竹西寛子の(滅多にみせない)政治批判についてC竹西寛子が原民喜『夏の花』に寄せた解説―「広島が言わせる言葉」についてD「不在」によってありつづける「存在」について―昭和二十年の広島の夏は、十六歳の私を動顛させた夏だった。確かに目の前に在ったものがなくなってしまった。が、私の記憶にははっきり在る人・物・事。では、記憶の中での存在は「在る」にはならないのか、とすると「在る」とはいったいどういうことなのか…。 討論はこの点もふまえながら、竹西寛子は大田洋子のように作家として原爆を体験した世代ではない、被爆広島を、物語にしてはいない。「管絃祭」は被爆した多くのものを俯瞰し、多数の声によって原爆を語らせ、管絃祭で締めた鎮魂の書。軍都広島を丁寧に描くことで、被爆のこと、戦後のことも浮かび上がる。静かな怒りが感じられる。竹西寛子は広島が好きなのであろう、彼女が書こうとしたのは広島である。等々議論が相継いだ。 |
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(土屋俊郎) |