「批評を考える会」 これまでの報告
(2004年9月〜2005年8月)

 <2004年9月>


 「批評を考える会」は、八月二十六日(木)、文学会の会議室で開かれました。参加者は、報告者を含めて十五名。今回は、「リアリズムを考える ―全国研究集会の討論から」というテーマで、報告者は新船海三郎氏。
 新船氏は、次のようなレジュメを用意されました。

 1.何が問題になったか
  (1)文学にとっての社会性、あるいはリアリズムと社会性
  (2)「私小説的リアリズム」、「自然主義的リアリズム」ということ
 2.「リアリズム」とは
  (1)リアリズムの概念規定の発展
  (2)事実、虚構、真実
 3.「リアリズム」論を発展させるうえで
  (1)ソ連・東欧の「社会主義」崩壊とリアリズム論
  (2)日本共産党の網領改定と「リアリズム」論
  (3)九回大会の定式化と規約改正

 具体的には、新船氏は「今日に求められるリアリズムとは(宮本阿伎)」と「若者の生をどうとらえるか(北村隆志)」の問題提起のうちの「リアリズム」に関わっての部分から報告を始めました。
 この報告に対して、特に宮本氏、北村氏からの発言がありました。また参加者のなかから、「具体的に、作品に即してリアリズム論を」という要望も出されました。

〈参加者としての感想〉
 全国研究集会の「今日に求められるリアリズムとは」という問題提起は、私自身、現段階における「リアリズム」論の到達点を必ずしも正確に理解していなかったが故に、その問題提起をよく理解することができなかった、ということは否めない。
 さらなる「リアリズム」論の発展のために現段階における「リアリズム」論の到達点の、ある程度の共通認識は必要であろう。
(井上 通泰)

 
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 <2004年10月>


 十月二十一日(木)、文学会事務所で「批評を考える会」が開かれました。参加者は報告者を含め十五名。
 「二十一世紀のリアリズムの視点」と題して三浦健治氏から報告があった。氏の報告は三章節に別れていて、それぞれが更に小文節に別れた章立てになっている。第一と第二章節は、本論の序論と言うべき性格である。概略三万二千八百三十二文字に及ぶ論考を滔々と読み上げられたので、分からないこともないが混乱したのも事実である。古代彫刻や詩文などが時代を超えて鑑賞に堪えうるのはどういうことだろう。三浦氏の問題提起は、芸術論のそういう原点を踏まえて、リアリズムの変遷と到達点、そして今後のリアリズムを展望しようとしたものである。ただ二十世紀のリアリズム(ダダイズムからシュールリアリズム・或いはジョイスの意識の流れに忠実であることを志した方法論)が落とされていることが出席者のひとりから指摘されたが、三浦氏もそれは意識していたらしい。
 蔵原惟人の「プロレタリアリアリズムへの道」とか、ソビエト連邦で標榜された社会主義リアリズム論への関心が強いために、主にその系譜で三浦氏の問題提起がなされたように思う。レジュメのコピーを出席者に事前に配布して、それぞれの章ごとに討論した方が、出席者側にも準備する時間があって、もっと活発な討論が期待できたのではないかと思われた。スターリンによる少数言語の抹殺は少数民族の抹殺に通ずる。言語は文化を構成する大きな要素である。言語があって大小を問わず民族の文化は存在する。むしろ今日は少数民族とその文化との共存を図るべきであるとする三浦氏の主張は共感できた。
 リアリズムは対象をダイナミックに捉えようとする性質を常に抱いている。そういうものとしてリアリズムを考えていこうとする三浦氏の発想は、刺激的であった。大田、北村、丹羽、水野各氏の発言があった。メモを取らなかったのでその他の発言者名については失礼する。カフカを反リアリズムと発言した人もいたが、シュールリアリズムがリアリズムと称しているように、カフカもリアリズムの範疇に入れるべきではなかろうか。描く対象が外的世界であるか、内的世界かの区別はあるとしても、対象を形象化しようとする意味では、リアリズムの範疇にあると解すべきであろう。
(唐島純三)

 
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 <2005年2月>


 「左翼としての江藤淳」(北村隆志)

 出席者は八名。テーマは江藤淳。彼は、海軍中将と少将を祖父に持ち、大学院在学中に評論『夏目漱石』を書いて文壇デビューし、一九九九年に自殺するまで、新潮社文学賞、菊池寛賞、野間文芸賞、読売文学賞を受賞。その他多数の著書と大学教授など多くの経歴もあり、石原慎太郎との親交もあつい保守的な思想家としても知られている。
 報告者は北村隆志氏。まず、「初期の江藤とマルクス主義」と題して、江藤淳の思想の変遷を探る。
 「(小林多喜二)の……この〈死〉を前にして日本の知識人の心から〈近代〉に対する信頼は消えうせた。……」
 「主体的に行動するということは、歴史の主人公になり、われわれの歩調に歴史の歩調を合わすこと。……人間が自らを破壊するよりは、生かすことを、戦争よりは平和を……」(著作集5『神様の克服』1958年)。
 その江藤が、安保闘争を前後して「保守派に転向」と、人にも論評され、自分でも認めている(『変節について』1965年)。
 マルクス主義の選択肢を失った江藤は、アメリカへ留学するが、彼はアメリカにも日本にも「故郷」を見出せない。ようやく発見した「故郷」が、「明治」だったという。
 北村氏は、『(民主)と(愛国)』小熊英二著から引用し、江藤の思想を評論する。
 「戦後思想における江藤の特徴は、旧世代のオールド・リベラリストとは異なり、自己のアイデンティティの問題から保守思想を組み立てていった点にある。……戦争と敗戦から、癒しがたい傷を負った一人の少年が、自分自身を語り、現実から逃れようともがく過程で、『自分探し』としての保守ナショナリズムという、前世代の保守論者には思いもよらなかった新しいスタイルが生みだされた」「彼が憲法について論じているところ、読み返してみる必要があるかなと思う」と。単に「保守」と決め付けるのではなく、その思想によって立つところに耳を傾けることも大切、ということを学ばせられた一夜であった。
(早瀬展子)

 
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 <2005年4月>


 四月二十八日、参加者は六名。テーマは第十一回新日本文学会大会に学ぶこと。報告者の岩渕剛氏は参考書を鞄いっぱいに持ち込んでの報告であった。その中で、あえて報告者が参考文献としてあげた窪田さんの「文学運動の中で」は、窪田さんがメモや記録を丹念に取る人なので、集会の開催日時や参加者の名前などが、ほとんどもれなく記録されている。更にそれだけに止まらず他の資料にも当たって正鵠を記されているので、記録の正確さだけでなく、戦後史の一時期がエピソードもまじえてリアルに濃密に描き出されている。「人民文学」の創刊の経緯から、第十一回大会を踏まえて、文学同盟の創立まで、仔細に知ることが出来る。
 宮本百合子の巻頭言「歌声よ、おこれ」で結成された新日本文学会の性格は多くの文学者を結集した文学者の統一戦線的なものをめざしたものであった。岩渕氏は、十一回大会にいたる以前の前史から辿り、以上の書を援用し、文学における統一戦線をめざす初心を会が打ち捨ててゆく、変質の過程を事実経緯を記すレジュメ(資料)二枚を用意して、論証した。
 以下、報告と討論の要点。直接的には新日本文学会第十一回大会における反対の意見表明をした四名の会員の除籍問題(いまは除籍なのか、除名なのか、つまびらかに出来ないので、岩渕報告に添って除籍と書く)によって問題は決定的となった。
 新日本文学会は作家・評論家の専門家団体であったのだが、第十回大会で入会資格の変更があった。文学的実績もない文化活動家と言われる大衆が数多く入会してきた。それは武井一派の差し金で、彼らに同調する仲間をふやすためであった。そういう工作をしておいて、第十一回大会の報告は強行採決されたのであった。それは学生運動出身の武井らしい根回しであったと言うことが出来るだろう。そして彼らの理念に同調しない会員は沈黙か排除されたのである。その動向の背後には、共産党第八回大会に向けた「意見書」の提出など一連の動きがあった。そうした党批判を容れられないままに、新日本文学会で彼らの主張を強行しようとしたのであった。私なりの受け止め方であるかもしれないが、ご容赦のほど。
(唐島純三)

 
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 <2005年8月>


 今回のテーマは『民主文学』五月号の乙部宗徳氏の評論「石坂洋次郎の一九三〇年代」を素材に、「一九三〇年代をなぜ読むか」。八月十九日、参加者十二名で催された。報告者は論者本人。氏は、テーマをとりあげた動機は、昨年五月号の「憲法改悪を許さない」緊急発言にあり、日本が侵略戦争へと進んでいったその時代を文学がどう描きだしたか、さらに憲法を改悪して日本を「戦争をする国」へと変えようとする動きが顕著な今日、プロレタリア文学の崩壊期に旺盛な活動をした島木健作、石坂洋次郎を読むことは、今日の文学運動を考える上で示唆に富むと語った。また、自身の仕事としては、初出に当たって、同時代のなかで読む方法の有効性を強調した。
 氏が素材とした石坂洋次郎が、「青い山脈」など参加者の青春期に映画となった原作者だったこともあって、活発な意見が交わされ、海外のレジスタンス運動との関係で複合的な捉え方が必要、「麦死なず」を書かなくてはならなかった背景は…などの意見、質問も続出した。
 私が今回参加した動機は、石坂洋次郎が『つばさ』一九三一年一月号に「東倶知安行」を読んでの評論を執筆していることを知っているからである。その評論は、小林多喜二が『改造』に「東倶知安行」を公表した直後に執筆されたもので、まさしく石坂洋次郎の〈一九三〇年〉であったからだ。そしてなにより興味を抱かせられるのは、これが小林多喜二旧蔵品であるからだ。小林多喜二と石坂洋次郎の関係について、もう少し奥深く論じられる必要があると思う。その上で、わたしは乙部氏の「その文学はどう転回されたか」とサブタイトされた論に、「麦死なず」に多喜二が実名で登場することなどを教えられたことは有益だった。それは洋次郎の向かわんとしていた方向の一つであったことを解いているからである。
 ただ、洋次郎の〈転回〉の解明に当たっては、乙部氏の論とともに、『現代日本文学アルバム』(学習研究社 76)第九巻の石坂洋次郎「ふるさとの山に向かいて」に注目する必要があろう。そこには、――日支事変が発展して軍国主義が支配しはじめると「若い人」はある右翼団体から「不敬罪」「軍人誣告罪」などで告訴された、心配になった私がその事を校長に告げると、……私にすぐ辞職するよう勧告した。……私は弁護士のすすめで、右翼団体から告訴された「若い人」の四十五ヶ所を書き直して、さし当たっての難をのがれたが、学校は辞めざるを得なかった」と書かれている。初出に当たるという作業のなかで、その書き直しはどの部分なのかも明らかにされるだろう。また、この一文に従えば、この依願退職を迫られた事件は、日支事変」―一九三七年の盧溝橋事件の頃の事件であり、「麦死なず」発表後のことである。洋次郎にそれまでの、教職との二足のワラジをはいた生活を改め作家専一の生活に入ることを強いたこの事件は、石坂洋次郎文学の〈転回〉を構成したもう一つの要因といえなくはないだろうか。
(さくむら聖いち)

 
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