十月二十一日(木)、文学会事務所で「批評を考える会」が開かれました。参加者は報告者を含め十五名。
「二十一世紀のリアリズムの視点」と題して三浦健治氏から報告があった。氏の報告は三章節に別れていて、それぞれが更に小文節に別れた章立てになっている。第一と第二章節は、本論の序論と言うべき性格である。概略三万二千八百三十二文字に及ぶ論考を滔々と読み上げられたので、分からないこともないが混乱したのも事実である。古代彫刻や詩文などが時代を超えて鑑賞に堪えうるのはどういうことだろう。三浦氏の問題提起は、芸術論のそういう原点を踏まえて、リアリズムの変遷と到達点、そして今後のリアリズムを展望しようとしたものである。ただ二十世紀のリアリズム(ダダイズムからシュールリアリズム・或いはジョイスの意識の流れに忠実であることを志した方法論)が落とされていることが出席者のひとりから指摘されたが、三浦氏もそれは意識していたらしい。
蔵原惟人の「プロレタリアリアリズムへの道」とか、ソビエト連邦で標榜された社会主義リアリズム論への関心が強いために、主にその系譜で三浦氏の問題提起がなされたように思う。レジュメのコピーを出席者に事前に配布して、それぞれの章ごとに討論した方が、出席者側にも準備する時間があって、もっと活発な討論が期待できたのではないかと思われた。スターリンによる少数言語の抹殺は少数民族の抹殺に通ずる。言語は文化を構成する大きな要素である。言語があって大小を問わず民族の文化は存在する。むしろ今日は少数民族とその文化との共存を図るべきであるとする三浦氏の主張は共感できた。
リアリズムは対象をダイナミックに捉えようとする性質を常に抱いている。そういうものとしてリアリズムを考えていこうとする三浦氏の発想は、刺激的であった。大田、北村、丹羽、水野各氏の発言があった。メモを取らなかったのでその他の発言者名については失礼する。カフカを反リアリズムと発言した人もいたが、シュールリアリズムがリアリズムと称しているように、カフカもリアリズムの範疇に入れるべきではなかろうか。描く対象が外的世界であるか、内的世界かの区別はあるとしても、対象を形象化しようとする意味では、リアリズムの範疇にあると解すべきであろう。
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