「批評を考える会」 <2012年9月> 

 いま、原爆文学を読む


 九月十二日(木)、午後六時三十分から、文学会事務所で「批評を考える会」の例会が開かれた。参加者は十二名。テーマは、本誌八月号特集「いま、原爆文学を読む」中の、澤田章子、小林昭、松木新、山形暁子の四評論。報告者は、風見梢太郎氏。
 最初に風見氏より、四十分ほどレジメにそって、原爆文学の今日的位置付け、および四評論の概要と所感が報告された。
 原爆文学は日本の誇るべき文学的達成である、3・11の原発事故後、その作品はあらたな価値を持って読まれるべきであると、先ずは原爆文学の今日的意義に触れた。
 続いて各論へ。澤田論文については、「原民喜『夏の花』三部作を読み直す」で、特に「壊滅の序曲」が原爆投下の直前の日常生活を描いていて、地味ながら日常生活の価値の重さとそれを戦争で失うことの意味をしみじみと問いかける名作で今日的に価値ある作品と評価しているところ、本当にその通りだと共感、胸に落ちたと述べられた。
 小林論文「井伏鱒二『かきつばた』のこと」については、あらためて読んだ、不思議な味わいのある小説だ、小林評論には安岡章太郎と井伏の対談が引用されているがとりわけ興味深かった、なぜ、こういう風に小説を作らなかったのだろうか、作者は被爆者ではない、この立場から描いた、象徴的意味合いのある作品であるなど、小林評論に触発されての、「かきつばた」への読後感を披露。
 松木論文「林京子が問いかけるもの」は、内部被曝問題を追及し、また原発に関わる作品を持続的に書いてきた林京子の側面に注目し、その流れを今日の現実にそくして跡づけ評価した評論である、被爆者として再び被曝を生む原発への批判精神の重みは簡単に真似ることはできないと感じたと報告した。
 参加者から、評論の冒頭に紹介されているように、「フクシマ」の事態に直面して、林京子が、「ああ、この国は確かに被爆国であった。なのに、何も学習しなかったのだ」と述べた、この林の「痛み」についての言及が足りない、いま語るのならここが問題なのに、という指摘があった。
 山形論文「山口勇子『荒れ地野ばら』を再読して」は、評者が作者の人間像を深く理解・共感して論じていること、運動と連帯のなかで原爆の問題を追及していることを跡づけ、民主主義文学運動の貴重な先輩として作家像を浮き彫りにし今日に押し出した、この評論自体がとても貴重であると報告された。
 続いての討論内容は割愛するが、特集執筆陣から小林昭氏、山形暁子氏の参加があり、盛会裡に終わった。                         
(島崎嗣生) 

「批評を考える会」に戻る