「批評を考える会」 <2009年11月> 

 


 十一月十九日(木)に今大会期初の例会が開かれました。テーマは村上春樹の『1Q84』、報告者は北村隆志氏、参考文献は本誌十一月号掲載の同作を巡る座談会でした。
 参加者は七名と少なかったのですが、京都・文華支部のとうてらおさんが駆けつけられ、賑やかになりました。とうさんは本誌座談会の発言のなかで性表現の過剰をめぐる発言、他幾つかの点に疑義があるという動機を携えての参加でした。
 まず報告の内容について。毎日新聞「文芸時評」の川村湊の言葉。面白い、しかし物足りない、これでいいのか、を最初に置き、「謎解きと解釈を誘発する村上春樹」として藤田省三、安藤礼二、島田裕巳、森達也、加藤典洋、沼野充義の発言を紹介、次に「なぜ多くの読者を獲得するのか」という項目を立て、「エンターテインメント性」(加藤引用…必殺仕置き人)「構造しかないから」(大塚英志、加藤、上田麻由子、斎藤美奈子)などの各言説を紹介、分析しました。石原千秋の「村上春樹は、小説においては直接的な『答え』は出さない作家のようだ……」などの紹介もありましたが、手際のよい諸説の紹介、分析を通じて「『構造』しかないということは逆に言うと『空白』に満ちているということ、小説の中の様々な数字、アイテムが謎解きやトリビア探索のもとになるのも、もっとも追求すべき中心が欠落しているせいである。中心のない断片の集まり、おもちゃ箱のような小説ともいえる」と最後に独自の見解を披露しました。
 とうさんは本誌座談会には、誤読が多い、とくに性表現の問題について「条例」「検閲」の言葉が出てきたが、話者が「検閲」を容認しているとも受けとられかねないのではないかという見解と、自身の物語への謎解きを開陳されました。
 ともに刺激的でしたので、討論では活発に意見、感想が出されましたが残念ながらここに述べることはできません。座談会への不満も出されたけれども、座談会があればこそこの例会が盛り上がったということも言えると思います。「『1Q84』のQのごとく、村上春樹は今後もクエスチョンとともにあり続ける作家ではないか」という北村さんの警句によって例会は閉じられました。
(宮本阿伎)  


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