八月二十一日、磯田光一『鹿鳴館の系譜―近代日本文芸史誌』を題材に、七名が参加し、岩渕剛氏が、詳細なレジュメを基に報告した。
岩渕氏は、近代日本文学史を、プロレタリア文学を含めて近代日本思想史の文脈の中に位置づけようとした磯田が、〈どのように〉位置づけようとしたのかがよく現れているのが、第二章「小学唱歌考」であると指摘し、近代化の過程で、人々の故郷〈くに〉への思いが、言葉の二重性を通して容易に〈国家〉的勲功に転化する動きを捉えた点で、磯田の分析には説得力があると述べた。
次に、第四章の二葉亭四迷『浮雲』の分析において磯田が、大切にすべき〈人間としての正直〉が、立身出世に象徴される〈都会〉の近代的功利性を否定する内海文三の理想主義になったとき、現実を見誤る精神主義へ転化するという、複眼的な読み方を主張する点について岩渕氏は、従前の文三の単純全肯定から進化した読みではあるが、磯田のように失職に伴う周囲の期待変化を読み違える〈お人好し〉を文三否定の論理とすれば、リストラされた労働者に対して〈自己責任論〉を言い立てるのと大差なく、〈お人好し〉が引きこもりを強いられる〈時代〉は妥当かという二葉亭のまなざしが見過ごされないかと述べ、現代に即した新たな読みの必要を指摘した。
次に第九章で磯田が、プロレタリア文学が掲げた政治的主張と無関係に、〈ムラ〉という風土に深く根を持った「道徳」性の極限が、秩序への意志としてプロレタリア文学者の「鉄の規律」「社会的観点」となったと分析した点について岩渕氏は、磯田『思想としての東京』にも触れながら、プロレタリア文学作家らの戦後の動きを見る限り、このような指摘にも一定の根拠が認められるとしつつ、それゆえに、磯田の分析からは宮本百合子が必然的に脱落すると指摘した。その上で岩渕氏は、現在の民主主義文学運動が、世間の厳しい目の中で運動を維持発展させて行くためには、過去の運動の弱点を見つめ繰返さぬことが必要であり、そうした観点から、磯田の分析からも学ぶことができると結んだ。
討論では、民主主義文学運動に批判的な立場の人の評論も、それを批判的分析的に読むことで学ぶことができると判り、報告に説得力を感じた、自分の小説も単純な二分法をベースに持っている弱点があり、こういう分析は参考になった、興味を感じたが鹿鳴館時代からの流れを単純化して、自分の論旨に引きつけていると思った等の感想が出された。
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