六月二十六日の「批評を考える会」の例会は、三浦健治さんにより、大江健三郎著『新しい文学のために』(第二回)をテーマとしておこなわれた。参加者は、十一名。三浦さんの報告は、内外の小説家、評論家、哲学者の論述をとりこんで、大江論を深める形で展開したが、熱のこもった報告に圧倒された。
二十年前に書かれた本書は、現在に通じ得るものだと私は考える。とくに、これから小説や詩を読み、あるいは書こうとする若い人のために、終りの15、16章の2章(「新しい書き手へ」)をあて、はげましの言葉が書かれていることに感激した。報告によってこの感想に導かれたわけだが、今回は、6章から16章まで(本書全体の三分の二)が対象で、急ぎ足はやむなく、前回同様メモをとるのが大変だった。文学の方法的原理的な問題について述べている本書だが、「想像力」について三浦さんは、「絵画よりもさらに直接的に、文学はいかに人間を統合するか、いかにかたちをあたえて人間をとらえるかに、永い年月努力を重ねてきたのだ。トルストイやドストエフスキーの人物たちを思い浮かべるだけで、人間を見てとり、言葉で人間を表現するということがいかに想像力的な作業であるかはあきらかであろう。日常生活での人間とのつきあいのレヴェルでも僕らは想像力を働かせて生きているのである」と、ほぼこのように言及した。
これはフランスの哲学者ガストン・バシュラールの想像力の定義、「いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ」「もしも眼前にある或るイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、もしもきっかけとなる或るイメージが逃れてゆく夥しいイメージを、イメージの爆発を決定しなければ、想像力はない」(バシュラール『空と夢』)などへのまとめ的感想として述べたもの。
大江氏は、このような言説種々を敷衍して以下のように本書の末尾近くに述べている。「どのようにして世界の民衆の『核の冬』を拒む意志を超大国の権力者の態度変更につなぎうるか? それが今世紀最大の想像力の課題であろう。想像力とは現にあたえられているイメージ、固定しているイメージを根本から作りかえる能力である」と。この語りの迫真性はこの書の書かれた二十年後の今も変わらない。
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