2023年5月に開かれた30回大会への幹事会報告です。


 戦争への道に抗して、文学運動の確かな前進を 
  ──日本民主主義文学会第30回大会への幹事会報告──
                             報告者 乙部宗徳


はじめに
 日本民主主義文学会第三十回大会は、波状的に襲われたコロナ・パンデミックと、低賃金・物価高騰によるかつてない生活苦に加え、憲法無視の大軍拡と戦争準備のきな臭さの中で開催される。ロシアによるウクライナ侵略戦争は、二年目に入っても止む気配がなく、無辜の市民の命と暮らしの破壊が続いている。このことは、ひとたび戦端が開かれれば、それを終結させるのは至難の業だということを示している。プロレタリア文学と戦後民主主義文学運動の伝統を受け継ぐ日本民主主義文学会は、この国の政権に対し、日本国憲法を遵守し、軍拡と戦争への道を放棄することを強く求めるものである。
私たちの文学運動は、創立以来六十年近く、侵略戦争に反対し、平和と民主主義、人々の命と暮らし、人権を守る立場から創造・批評を積み上げてきた。人々の苦難や闘いがあれば現地に出向き、数多くのルポルタージュも発表してきた。「新たな戦前」とさえ言われるこの年、私たちは小説・評論・ルポルタージュなど、総ての分野の書き手が文字通り力を尽くして、戦争につながる動きに抗していかなくてはならない。そのために文学運動が進むべき方向を明らかにするのが、この大会の第一の課題である。全国の構成員の知恵と経験を結集し、この大会を時代を撃つ新たな文学創造に挑む契機としようではないか。
 今大会のもう一つの課題は、組織の維持発展をどうはかるかということである。現在の文学会の組織・経営状況は、文字通り危機的なものとなっている。四年目に入ったコロナ禍は、長い間の先輩たちの努力で、全国津々浦々に草の根のように広がった支部活動に、深刻なダメージを与え続けている。例会を開くのが難しい。懇親会も設定されない。読者拡大の機会となる、異分野の人々との接触・交流も制限される。人々の豊かな交わりの中でこそ育まれる文学運動にとって、大きな困難が続いている。また、以前から指摘されてきた組織の高齢化と世代継承の問題も、待ったなしの課題である。さらに経営面では、諸物価高騰が出版業にも大きな打撃となっており、紙代や印刷資材の値上がりで、様々な経費削減努力にも拘わらず『民主文学』の安定的発行に赤信号が灯っているのが実態である。
 このようなかつてない多くの困難に見舞われてはいるが、私たちはそれに屈してここで民主主義文学運動の灯を消してしまう訳にはいかない。全国には、この困難を克服し得る経験と実績を持った支部や構成員が数多く存在している。オンライン等で創意工夫をこらして活発な活動を維持している支部も少なからず存在し、さらには支部再建・新支部結成を契機に、貴重な前進を果たしている地域もある。若い世代も、独自の研究集会やオンラインを活用して繋がりを広げるなど、その奮闘には未来への希望が見える。それら数多くの経験から生まれた教訓を、この大会で会全体のものにできたら、それは困難克服の大きな力となる。全国の総ての支部と構成員の知恵と力で、何としてもこの状況を乗り切り、そして世代継承への次のステップを踏み出そうではないか。

1、戦争か平和かの歴史的岐路と文学者の使命
 二〇二二年二月二十四日に始まったロシアのウクライナ侵略は、世界に大きな衝撃を与えた。国連憲章に違反し、戦後の国際秩序を踏みにじる暴挙に対し、侵攻開始から一年の二三年二月二十四日、国連総会はロシア非難決議を採択した。昨年三月と同じ一四一か国が賛成し、侵略を許さない国際世論の強さを再び示した。棄権は中国、インドなど三二か国、反対はロシア、北朝鮮など七か国だけだった。「民主主義対専制主義」と世界をあれこれの価値観で二分するのでなく、国連憲章順守の一点での国際社会の団結の重要性を示すものである。ウクライナでは今も戦争が続いているが、ロシア軍は予想外の苦戦を強いられている。外交的にも軍事的にもプーチンの野望は壁にぶつかっている。
 一方、中立国のスウェーデン、フィンランドが新たにNATOへの加盟を同時に申請するなど、ロシアの軍事行動を機に軍事ブロック強化の逆流がおきていることも見逃せない。
ベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは「朝日新聞」二三年一月一日付のインタビューで「ロシア人を獣にしたのはテレビ(プーチン政権の長年のプロパガンダ)だと思います」として、これに対抗する作家の使命について「ドストエフスキーが示したように、私たちは『人の中にできるだけ人の部分があるようにするため』に働くのです」と語っている。専制権力の野蛮な侵略と暴力に対し、平和と自由を求める人間性を守り回復することこそが文学の使命だという指摘である。
ロシアの侵略の衝撃は日本の政治にも及んでいる。侵攻直後には安倍晋三元首相を先頭に「核共有」論が叫ばれ、改憲・軍拡勢力の勢いが増した。安倍元首相は七月の銃撃事件で亡くなったが、岸田文雄首相は安倍元首相の国葬に続き、北朝鮮のミサイルや中国の脅威も口実に、改憲・軍拡の道を邁進している。
二二年十二月に閣議決定された安保三文書は、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有と、二七年度には軍事費をGDP比2%に倍増させ、五年間で四十三兆円の軍事費を積み上げる大軍拡を打ち出した。これは歴代政権が曲がりなりにも掲げてきた「専守防衛」を投げ捨てる暴挙であり、明白な憲法違反である。すでに二三年度予算の軍事費は前年度の一・二倍に大幅に引き上げられた。くらし・福祉へのしわ寄せと負担増は必至である。
作家の中村文則は「しんぶん赤旗」日曜版二二年十二月二十五日号で「国の滅亡につながるような閣議決定です」と強い危機感を示し、「本当にこれでいいのか、日本がアメリカの戦争に巻き込まれていいのかと、問題にし続けることが必要です」とよびかけている。
日本はいま戦争か平和かの歴史的な岐路に立っている。全国の平和・民主団体、あるいは「九条の会」など草の根の運動による反撃が始まっている。ウクライナ侵略を利用した政府の「危機煽り」をマスメディアが流す中で、世論調査で「防衛費」の増額に賛成する人が半数を超える事態が続いていたが、その後、増税が報道されるなかで、反対が賛成を上回るなど、変化もみられる。文学者としての使命に立って世論に働きかけていく必要がある。
 世界共同フォーラムが発表した日本のジェンダーギャップ(男女平等格差指数)ランキングは世界一四八か国中一一六位(二〇二二年)である。#Metoo運動を契機に広がったジェンダー平等を求める運動は、性被害の告発と勝訴が続くなど、引き続き大きなうねりとなっている。自衛隊内での性被害を実名で告発した元女性自衛官に対し、自衛隊は事実を認め、謝罪した。ジェンダー平等の実現と、LGBTQ(性的少数者)の人権回復は文学にとっても大きな課題になっている。
 二酸化炭素の排出増による気候危機も差し迫った課題になっている。パリ協定では二〇三〇年までに二酸化炭素の排出量をほぼ半減させ、二〇五〇年までに脱炭素を実現することが世界共通の目標となっている。しかし日本は世界の取り組みに逆行しており、二〇二二年の国連気候変動枠組条約第二十七回締約国会議(COP)で、三回連続となる不名誉な化石賞を受賞した。
東日本大震災から十二年が経つが、岸田政権は震災復興に二つの逆流を持ち込んでいる。一つは復興特別所得税の一部の軍事費への転用方針である。被災地軽視も甚だしい全くの筋違いである。もう一つは、原発の新規建設と運転期間の延長を打ち出したことである。福島第一原発事故の教訓を投げ捨て、核のゴミを増やし続ける時代錯誤な政策転換である。
 「異次元の金融緩和」の展望無き継続による異常な「円安」と物価高、コロナ対策の無策無能ぶりなど、岸田政権はあらゆる点で国民世論と逆行している。安倍元首相殺害事件の被告の親が統一協会の信者だったことで、はからずも自民党など政界との癒着の深さ、違法伝道や霊感商法による被害拡大の深刻な実態が明るみに出た。統一協会の被害者救済新法も、実効性の乏しいものでしかない。
 自公政治を変えるための市民と野党の共闘は、さまざまな攻撃や妨害を受けて大きな後退を強いられた。われわれは平和と暮らしの緊急の一致点での国民的運動の発展に力を注ぐとともに、市民と野党の共闘の再構築のために努力を続けていく。
 
2、日本文学の動向と民主主義文学
①日本文学の動向をどう見るか 

 大江健三郎が亡くなった。その文学については、これからも深められるだろうが、平和や人権という戦後民主主義を作品のモチーフとしたこと、また、九条の会や反原発の活動に取り組むことで、文学者としての社会的役割を積極的に果たした意味は大きい。
 ロシアのウクライナ侵略を引き金に、国内外で戦争の危機が強まる中で、反戦平和への関心が高まった。『文藝』二二年冬季号の奥泉光と加藤陽子の対談「眼前の『戦前』を直視する」において、奥泉が「今我々が新たな『戦前』にあるのだとして、昭和の『戦前』とは違う、戦争をしないための『戦前』が必要」と指摘したのは、現代日本文学の良心を代弁するものであった。『群像』二二年九月号の特集「戦争の記憶、現在」に掲載された松浦寿輝「香港陥落―Side B」や高山羽根子「パレードのシステム」、また小川哲『地図と拳』(集英社、二〇二二年下半期直木賞受賞)、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房、二〇二一年本屋大賞受賞)、金石範『地の疼き』(『すばる』二二年五月・六月号)などは、それぞれの方法で戦争の歴史を問い直した力作であった。文学ムック『ことばと』vol.6(二二年十一月発行)の特集「ことばと戦争」に「ロシア―戦争に反対する詩人たち」と題し、インターネットで発表されたロシアの反戦詩が高柳聡子の翻訳・解説で掲載されているが、自国の戦争犯罪に向き合い、告発する、悲痛に満ちた美しい詩集である。インターネットを通じて反戦文学の国際的交流がリアルタイムで行われるのも、現代的な成果である。
 戦争の危機に加え、コロナ禍の閉塞状態が長引く中で、国家や社会の現状を問い直す動きも進んだ。多和田葉子が『地球にちりばめられて』『星に仄めかされて』『太陽諸島』(講談社)の三部作を完結させたが、民族対立や移民問題を踏まえ、独特の広がりのある空想的な物語によって未来への展望を探っている。多和田は「日本経済新聞」二二年十一月十八日付のインタビューに答えて、「何を書いても良い、ではつまらない。現実離れした自由な出来事を考え出したいというクリエーティブな力と、それをさせまいとする現実の力とのあつれきがあったとき、小説は面白くなる」と語るのは示唆に富み、社会的歴史的真実とフィクションとの関係に大きな確信を与える。
 他方、窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋、二二年上半期直木賞受賞)は、コロナ禍での人々の悲しみを描いた。平野啓一郎『本心』(文藝春秋)も格差が拡大した近未来に舞台を設定し、優しく助け合う人間関係を求め続ける人間の在り方を描いた。佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、二二年下半期芥川賞受賞)は、東北大震災で破壊された家庭と仕事を立て直そうとあがく男の姿をリアリズムの方法で描いた。
木村友祐「法と人間のあいだ―弁護士・伊藤敬史さんに聞く」(『すばる』二二年十二月号)は在留外国人排除・人権侵害問題で活躍する伊藤弁護士へのインタビュー記事であるが、この冒頭で「正しいことを正しいまま書くことを、文学はとても嫌うのだろう。正しいことを語るにしても、幾重にも迂回し……読者に正しさの圧迫を感じさせないようにしなければならない」という文芸ジャーナリズムへの的確な批判が表明されている。川上弘美と小山田浩子の対談「違和感を感じ続けることを選ぶ」(『新潮』二二年四月号)では「『本当』のことを書きつつ、世界が広がっているような作品」を書きたいという小山田の素朴な言葉がかえって印象的だった。小川公代「女たちのアナキズム―〈生〉を檻から解放する」(『文學界』二二年四月号)はフェミニズム思想史をたどる重要な論考であった。小川の『ケアの理論とエンパワメント』『ケアする惑星』(講談社)は、これからの文学批評に欠かせない視点を掘り下げている。
 最近の日本文学における最大の変化は、フェミニズムの成果によって社会批判が深まり、ジェンダー差別の観点から職場や家庭を描く作品が主流を占めるに至った観があることだ。この流れが今後変わることはないだろう。高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、二二年上半期芥川賞受賞)は、食や恋愛・結婚という人生にとって基本的な問題がジェンダー差別にゆがめられ苦しめられているが、差別と抑圧を打ち破り新たな人間関係を築く展望を持ち得ず、「闘えない人々」の閉塞状況をリアルに描いた。ちょうどこれと問題意識が対応する形で、上村ユタカ「なに食べたい?」(二二年第十九回民主文学新人賞)は、旧来型のジェンダー観のままでは解きえない食と貧困問題、そして若い世代のアイデンティティの確立を模索し、新たな闘いと友愛の方向を示している。上村は同時に「救われてんじゃねえよ」で第二十一回R―18文学賞(二〇二二年)を受賞し、こちらの作品では、生活の破綻した問題のある両親と、ヤングケアラーという深刻な問題を取り上げた。
年森瑛『N/A』(文藝春秋、第百二十七回文學界新人賞)は性自認と周囲の軋轢に苦しむ若い女性を描いて高い評価を受けた。温又柔『祝宴』(新潮社)は台湾の実業家の娘が、国籍も性別も学歴も超えて自立していく姿を描いた。石田夏穂の『ケチる貴方』(講談社)と、特に「黄金比の縁」(『すばる』二二年八月号)は、職場におけるジェンダー差別の問題を鋭く批判しつつ新たな風刺物語を作り出した。若竹千佐子『かっかどるどるどぅ』(河出書房新社)は、貧窮化し、孤独に追い込まれた高齢の女性たちの強さ、プライド、そして世代を超えて互いを尊重する、新たな相互扶助の人間関係をリアルに模索した。
 ジェンダー差別に歪む家庭の中で苦しむ女性、特に親からの虐待を受け、母親との関係に悩む娘を描く作品の中で、宇佐見りん『くるまの娘』(河出書房新社)と、これを論じた精神科医の信田さよ子「母が産んだ娘が母を育てる 宇佐見りん『くるまの娘』を読む」(『文藝』二二年秋季号)は、このような現代的テーマに取り組もうとする文学に重要な指針を与えるものであった。信田自身カウンセラーとして生々しい現実に触れてき、「毒親問題」の提唱者ですらあるから、依存症や性被害を扱った小説に何のリアリティも感じられず避けてきたと、一刀両断にしている。戦争という大きな問題を扱うにも、個人のメンタルの問題を扱うにも、リアリティをどこに得るか、創作の基本に立ち戻らねばならない時代なのだ。「日常のありふれた光景に潜在する問題を当事者本のリアルさが明るみに出したとすれば」文学の存在意義が逆に問われることになる。当事者本の「リアルに対抗できる文学こそ求められている」と信田は迫る。二〇一五年のノーベル文学賞がジャーナリスト・ドキュメンタリー作家のアレクシエーヴィチに授与され、二二年に『亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言増補版』(岩波書店)で、ようやくその「赤い人間 ユートピアの声」全五部作の邦訳がすべてそろった。ドキュメンタリー文学・証言文学がフィクションの世界を良い意味で脅かしている世界文学の状況に、こなたは家庭問題・親子関係というミクロな場面ではあるが、日本文学も呼応していると言える。
政治・社会への関心が希薄であると指摘されてきた日本文学においても、戦争・コロナ禍・ジェンダー差別との闘いを通じ、人間の社会性、人間存在の根幹を問う少なくない成果が生み出された二年であった。

②民主主義文学の創造の成果と課題
民主主義文学は時代と社会を真正面から見据え、日々を懸命に生きる人々を描いてきた。今期の成果として、以下のような作品をあげることができる。
長編小説は作中を長い時間が流れることもあり、その時代の特徴を抉り、歴史を振り返って現代を問うてきた。
梁正志「荒草の道(第一部)」は、朝鮮人の父親と日本人の母親を持つ少年が、両親が別れた後、母親と妹と三人で朝鮮人長屋の一画で暮らす様子を綴るが、一九五〇年代の大阪の下町の人々の生活が子どもの目で捉えられている。今後時代を追って社会の変化が書き込まれていくのだろう。すでに第二部が始まっている。
高岡太郎「廻り道」は、高度経済成長の後期、企業が合理化を進め、労働災害も頻発する中、労災隠しや共産党内に潜むスパイと秘密裏に連絡を取るなどの労務管理に携わった人間を主人公に、凄まじい反共労務政策の実態を描いている。七〇年代半ばの企業の側からの想像を絶する労働者管理の有様が反響を呼んだ。
青木陽子「星と風のこよみ」は、七〇年代の初め大学を卒業し、教師を経て民医連加盟の経営に再就職した主人公が、政府の医療攻撃が激しくなり、労働条件も厳しくなる中、それらに抗いながら人としての矜持を持って働き続ける姿を描いた。
中嶋祥子「非正規のうた」は、作者自身が闘った争議を題材に非正規雇用の労働組合の活動を活写した。非正規労働者の地位と権利を守る闘いを主軸に、文化活動やレクリエーションにも取り組む姿が、六〇年から七〇年代にかけての、活発な労働組合運動と併せて全国で文化運動が花開いていた時代を髣髴とさせ、改めて労組の役割を考えさせる。
井上文夫『曙光へテイクオフ』(「しんぶん赤旗」連載、新日本出版社)は、百六十五名のパイロット・客室乗務員の整理解雇に対する裁判を題材に、もの言う労働者の排除という人間の尊厳を踏みにじるものとの敢然たる闘いを描いた。自衛隊から移籍してきて憲法九条にも抵抗のあった主人公が、仲間と行動する中で家族とともに変化・成長する姿がさわやかに描かれた。
労働組合の闘いを扱ったこの二つの作品は、新自由主義の厳しい状況下で働く人々に希望ある生き方を提示するものとなった。
また、東喜啓「望月の照る道」(「しんぶん赤旗」連載)は、ハウスクリーニング後の清掃作業に携わっていた主人公が、アスベストによる肺癌になり、悩んだ末にアスベスト訴訟の原告として立ち上がる姿を捉えた。
なかむらみのるの遺作となった「新潟平野」(『人権と部落問題』連載)は、共産党員としてまた九条の会事務局長として活動してきた作者が、自分や周囲の高齢者としての切実な問題にも触れつつ、「記録できる力のあるものの責任として」の意識で、憲法擁護を基軸にした「市民と野党の共闘」に確信を持って闘っている人々の姿を私小説的な手法で描いた。
工藤勢津子『黄昏にやさしく』(『女性のひろば』連載、新日本出版社)は、ケアマネジャーの立場から介護について考え、また触れ合う高齢者を通じて、老いを見つめ、人生を最後まで謳歌できる生き方を問いかけている。
川村俊雄「孤児の地図」は、東京大空襲で親と家を失った少年が、農兵隊に動員される中で、終戦を迎え、新たに生き直そうとする姿を通して、戦争が人びとに与えた苦難を示した。
戦争をどう後世に語り継ぐかの課題を据えて、また、ロシアのウクライナ侵略を過去の戦争に重ねる思いもあったのだろう、短編にも多くの戦争関連作品が生まれた。草川八重子「サファイアの海」は、戦死の連絡すら届いていない叔父の戦地マニラでの最期に思いを馳せ、杉山まさし「遺句稜線」は戦死した父親が遺した手帳に書き留められた俳句から父親の戦争への思いを汲み取る。松山薪子「子牛に乗った少女」は、空襲を体験している作者が、その空襲で亡くなった友の記憶をたどる。倉園沙樹子「誠太郎の判断」は、広島に原爆が投下された日、建物疎開への生徒の動員を中止させ原爆の被災から免れた国民学校の教頭の葛藤を描いた。
かつての戦争が日本の侵略戦争であったという事実や、戦争に駆り出しておきながら個々の兵を守らない国の姿など、国家や戦争の仕組みに目を向け、過去との向き合い方を模索した作品も書かれた。中寛信「どこにもいなかったこと、どこにでもいたということ」「七三一部隊罪証陳列館」は、日本語講師として赴いた父親の出征地中国で、主人公は両国の人々の融和を思う。梓陽子「バルハシ湖の黒い太陽」は、父が抑留された旧ソ連のカザフ共和国を訪ねた主人公が、後に、抑留は「関東軍が捕虜使役をすすんで申し入れた」のであったことを知って戦争や国家について考えをめぐらす。大浦ふみ子「忘るなの記」は、あってはならない日本人の朝鮮戦争従軍を取り上げ、朝鮮戦争と日本との関わりを問いかけた。また、高橋英男「コスモスの咲く頃に」は、白血病で急死した友人の両親を訪ねた青年の語りで、戦争と被爆の悲惨、被爆者差別、被爆者である母親の原水爆禁止運動参加について会社から父親に加わる不当圧力と、それを避けるために偽装離婚をする事情など、二重三重の苦しみを被る被爆者を描いている。かつての戦争は体験者も少なくなって遠くなっていくが、遺品や記憶を手がかりに調査や取材を重ねて、想像力を働かせ、この国がまたも戦争への道を走り出していることへの強い危機感をもって、様々な形で戦争を描き続けたい。
不寛容の社会と言われ、また片方で偏見や差別意識を見つめ改めようと社会に訴える人々の声も大きくなっている中、「差別」により、人間が分断されている実態や、昨今の人権意識の拡がりを見つめた作品も多く書かれた。草薙秀一「梁貴子との青春」は、朝鮮人を罵倒するヘイトデモを見つめ、高校時代の在日朝鮮人の女生徒との交際を振り返りつつ、何故同じ人間を差別するのかと問う。髙橋篤子「ペトトル川」は、祖父の代から日本に渡り日本で生まれ、帰還しなかった「在日朝鮮人」の苦悩を見つめ、馬場雅史は「夷酋幻像」「ポパイの行方」で、アイヌ差別に対する闘いや、戦前の厳しい弾圧から身を守るために偽りの姿を通した人物を描いてアイヌへの思いを綴った。石井斉は「街路樹」「青空」で、四十年間入院していた精神科病院を退院して自立する主人公を通し、精神障害者差別の形や主人公の自立を支える人びとの姿を描いた。風見梢太郎は「庄吉さんとおじいちゃん」「米寿のプロポーズ」を書いてLGBTQの問題に向き合い、杉山成子「誰もこの涙に気づかない」は、夫の暴力から逃れる女性を描き、顕在化しにくい夫婦間のDV問題に迫った。社会のジェンダー問題の考え方は大きく変化しており、文学の課題としても大事になっている。そこに主題を探る作品はまだ少ないが、意識して挑戦を続けたい。
世界がコロナ禍に見舞われてすでに三年を超えた。人々の生活が否応なくその影響を受けざるを得ない今日、多くの作品がコロナ禍を背景にして描かれた。塚原理恵「エンゼルケア」は、クラスターが発生した過酷な病院現場と尊厳ある逝去時ケアを追求する看護の世界を正面から捉え、橘あおい「静寂の刻」は老人保健施設での新型コロナ陽性者発生の前と後とを対比的に描いた。
柴垣文子「雛鳥」は、コロナ禍の医療現場の逼迫を背景に誤診で危うく死にかける事態を描き、櫂悦子「クリーニング屋の夫婦」は、コロナに感染し自宅療養をする知人を心配しつつ自分たちの老いを思う夫婦を描いた。仙洞田一彦「幸運」は、新型コロナに対する政府の無策と監視社会を風刺し、ほかにも、川本幹子「伸ばした手の先に」、須藤みゆき「のどかな食卓」、最上裕「風車の音」、中原遼「新しい日常へ」、渥美二郎「ノーコーヒー・ノーライフ」「ラン・ラン・ラン」(『クレスコ』連載)など、多くの作品がコロナ禍や緊急事態宣言下の日常を背景にしている。三年以上にわたり波状的に人々を襲い、暮らしや労働のあり方に大きな影響を与え、多くの死者を含む患者を出し続けているこのコロナ禍は、日本社会の構造的な、あるいは根源的な脆弱さやゆがみをあぶり出している。この事態を、単なる背景にとどめず、政治のありようも問いつつ、正面から立ち向かう作品が待たれる。
かつて、書き手に現役で働く人が多かった頃は「労働」や「職場」を中心にした作品も多かった。現役世代が少なくなった今、労働現場を描く作品は貴重だ。瀬峰静弥「二十歳の糸口」は、詐欺商法から後輩を救おうと奮闘する先輩の目から職場の人間関係を捉え、篠田佳希「フリージアを抱いて」は、介護職の青年が、入居者の最期を看取ることで仕事の意味をつかむ過程を描いた。小西章久「枯死」は、トビイロウンカの被害を受けた米づくりの困難を描きつつ、自然と触れ合う農業労働の喜びも伝えるが、専業農家ではない設定が日本の農業の現実の一端を描くことにもなった。村越正「ガラスの城」は、コンビニ経営が抱える問題を描いて、現代社会の経済の矛盾を提示している。
労働現場と同様に労働組合運動を中心に闘いを描く作品では、過去のそれを振り返る作品が多く書かれた。田村光雄「全金通りの人々」は、東京に革新都政が誕生した頃の、組合への分裂攻撃に抗してたたかう群像を描き、牛尾昭一「三人の造船工」は、第一組合の活動を三人組として支えていた一人が、妻の病気が理由で組合を脱退して労務担当になったことをめぐる苦悶と労働者の絆を捉えた。宮越信久「峰々に憩いあり」もかつての労組の活動家を描くが、管理部の切り崩し工作によって組合を脱退した元同僚が、残った組合員のための都労委での証言を辞退したそのことをずっと悔いていたと知らされて、過去の自分たちの不十分さに気づく。笹本敦史「カリスマ」は、生活協同組合という職場の、疑問に思っていた過去の事件の原因が粉飾決算にあったことを知り、民主的運営の難しさを思い、関わった人間たちの思いを見つめる。それぞれに過去の大事な闘いや絆を描いている。
過去を描く際には、なぜ、今それを描くのかを、書き手自身が自己を問い詰め、その眼で捉え直して作品に挑みたい。
民主主義文学運動においては共産党員など闘う人間像の生き方を主題とする作品が描かれてきたが、能島龍三「カメラッド」は、戦前の弾圧で心ならずも屈服させられた人をどう見るかを今日に向けて問いかけ、かがわ直子「ラストステージ」は、共産党の地域支部の高齢者が、党員との結びつきの中で闘い続けようとする姿を描いている。
永遠の文学のテーマとも言える、青春の息吹を伝える作品も書かれた。斎藤克己「葦の沈黙」は、一九六〇年代後半の高校での政治活動規制との闘いの記憶から、今日の管理教育が進む教育現場の欺瞞を撃つ。田本真啓「憎めないダダイスト」は、学生時代に翻弄された女性が再び自分の前に現れて、彼女に思いを残している自身に戸惑う青年を描く。池戸豊次「鳴石」も、郡上八幡の風土を背景に若者の恋心を細やかに描いた。空猫時也「なお青い通過駅の空」は、居場所をみつけられなかった若者が、小説を書くことに生きる意味を見いだすまでを描く。
東日本大震災から十二年、震災や原発事故も大事な題材だ。三原和枝「家」は、原発事故で避難していた女性が、避難指定解除となったことで、亡くなった夫と暮らした家を私設の原発被災資料館にしようと考える姿を描く。北原耕也「壊れたカメラ」も3・11を背景に、地震で壊れた写真館の古いカメラを中心に据え、「忘れることを恐れて写真を撮る」人と人のつながりの記憶が明日を生きる支えになることを示す。井上通泰「家鳴り」は、小さな集落での葬儀の後、家や共同体について考える主人公が地震に遭い、人が生きる意志を考える。
ほかにも、戦後政治の総決算を唱えた中曽根元首相の死の報道に、国鉄分割・民営化で鉄道病院労組が分断され不当配転された主人公が、今糾弾されない彼の仕業を悔しく振り返る稲沢潤子「コスモス」、定年退職後、炊き出しボランティアをして自分がやるべき仕事を見出す男性を描く矢嶋直武「黄昏の街」、ニュース番組の現状をコメディタッチで批判的に捉えた野里征彦「アンカー・マン」、北朝鮮へ帰還する少年との友情を描いた石井建仁「別離」、兎を飼い手放した少年の心情を軸に六十年前の地方の暮らしを描いた宍戸ひろゆき「ピョン吉」、時代が移り、稼業や職人たちの仕事、人々の暮らしが変わっていく様を見つめた三富建一郎「死者の温もり」など、様々な方法で社会や人間に迫った作品が書かれた。
 今期から掌編小説を募集し、折りを見て掲載してきた。二二年六月号から二三年三月号まで十一作品が掲載されている。枚数にふさわしい題材と書き方を工夫して、多くの人が投稿されることを期待したい。
戦争か平和かの歴史的岐路に立つ今、文学運動の書き手は、この社会とそこを生きる人間の、何をどう見つめ、どう作品化していったらいいのか、書き手としてこの時代をどう捉えるのか、強い意識を持って作品に取り組む覚悟が求められている。
戦争とは戦闘だけを意味しない。社会と人間が戦争を遂行するものに変質させられる、これも戦争の一局面と言えるだろう。貧困、格差、差別、言論抑圧・同調圧力、報道統制、フェイク等々、新たな戦争に繋がる社会と人間の現象を鋭く見抜き、作品化していく厳しい文学の目を持つことで、時代を撃つ作品を生み出していきたい。

➂民主主義文学の批評と課題
民主主義文学運動において、批評は時代の動向や本質を見据え作品の意義や価値を明らかにしていくことにとどまらず、時代や社会に働きかける芸術本来がもつ高い能力を備えた文学作品を生み出す重大な役割を担っていると考えられてきた。創造と批評の関係をこのように捉えることの重要性を、今期の批評の成果と課題を導きだしていく基本的な構えとして最初に強調しておきたい。
第二十九回大会期のスタートとして印象深いことは、二〇年十一月八日に他界した旭爪あかねの追悼特集が組まれたことである。吉開那津子「『世界の色をつかまえに』の成立に関わって」と谷本諭「旭爪あかね『稲の旋律』三部作を読む」の二稿および追悼文四編が掲載されたが、旭爪が切り拓いた民主主義文学の新しい世界の意味を考えさせるものとなった。業績の検証は二二年五月に行われた第二十七回全国研究集会におけるシンポジウム「旭爪あかねの文学が追求したもの」に引き継がれ、「問題提起」(宮本阿伎)とシンポジウム(宮本阿伎、梅村愛子、須藤みゆき、谷本諭、田本真啓、久野通広)が抄録された。
批評においても、戦争とジェンダーが大きなテーマとなった。
「戦争と文学」は三号にわたって特集が組まれ、最初の特集では、下田城玄「太宰治の戦争― 『惜別』などをめぐって―」松木新「大岡昇平の戦争」、北村隆志「忘れられた加害の文学・洲之内徹」、碓田のぼる「宮本百合子と渡辺順三」と多彩な評論が並んだ。北村評論に関しては新船海三郎が「戦争加害をえがくということ」という批判を旨とする論稿を発表し、「加害」を描く文学作品とは何かをあらためて考えさせる機会となった。
ロシアのウクライナ侵略の情勢を受けた二度目の特集では、下田城玄「トルストイの絶対平和主義」、岩渕剛「林芙美子の戦場」、石井正人「戦争の非人間性に苦しむ心を伝承すること――アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』について」が、三度目では新船海三郎「早乙女勝元と東京大空襲」、下田城玄「ドストエフスキーの戦争論」、澤田章子「宮本百合子─反戦・平和のたたかい」が並び、民主主義文学運動が戦争と文学の問題を一貫して追求してきたことを裏付けた。
「ジェンダーと文学」の特集も二号にわたって組まれた。北田幸恵「ジェンダーから読む宮本百合子の『婦人と文学』⑴」は、「ジェンダー」概念が未だ存在していない時代に宮本百合子が今日のジェンダーに通じる「前人未踏の領域をほぼ独力で開拓」することになった過程をつぶさに跡付け、またこの特集には、ノーマ・フィールドの松田解子「『ある戦線』論」(伊藤知代訳)も寄せられた。
二回目の特集では、岩渕剛「ジェンダー問題を作品から考える」が、ジェンダー問題に注目することは、従来当たり前とされてきたことを〈ずらし〉の視点から考えることでもあるという命題を論証し、石井正人「海外文学におけるジェンダー」は海外文学史をジェンダー視点により見直すことを試みた。
「東日本大震災から十一年」の特集は、会外からの和合亮一の詩と木村友祐の評論「震災を悼みそこねて」の寄稿とともに、和田逸夫「『震災後文学』の今」、たなかもとじ「『非核の火』」がならび、震災、原発事故の記憶を風化させてはならないという筆者たちの問題意識を伝えている。
「プロレタリア文学特集」には、久野通広「『「敗北」の文学』と『様々なる意匠』」、大田努「小林多喜二・『火を継ぐもの』」、岩渕剛「『ゆらぎ』からの『リアリズム』」(徳永直論)が掲載された。
「多喜二没後九十年記念特集」では、岩崎明日香・神村和美・宮本阿伎による座談会「多喜二の描いた女性像」が、多喜二の女性像の描出の追求に注目して、新たな魅力を引き出している。荻野富士夫「第二の『星雲状態のなかで』――多喜二の疾走した時代」は、多喜二が登場してくる当時の社会状況を検証した。
プロレタリア文学運動が社会の現実と文学創造との関わりを考え、多彩な実践と理論的探求を試みた文学運動であったことは今日の民主主義文学運動における問題意識として引き継がれている。
このように編集企画に基づき、活発に特集が組まれる中で、論者の問題意識による論考も書かれた。
宮本阿伎「小林多喜二『工場細胞』『オルグ』再読――女性像を中心に」は、研究史を整理しまた近年の研究の進展を踏まえ、今日の眼から新しい一行を付け加えることに挑戦した。
石井正人「コロナ禍の文学──上村ユタカ『偽物』にかかわって──」での、「コロナ禍の下、オンライン授業による孤立で精神の安定を失っている大学生の追い詰められた心理状態をシュールレアリズム的な技法で的確に描いた作品である」という指摘は、若い書き手によって生み出された作品の意味を解き明かすものだった。
乙部宗徳「『復帰』五十年と沖縄の文学」は、「復帰」後の半世紀の沖縄文学の流れに「たたかいの反映がほとんどない」ことを指摘し、現在の新基地反対のたたかいに続く沖縄の歴史と人びとを描く上で民主主義文学の書き手の存在が欠かせないと呼びかけている。
高田三郎「過激派学生運動のパロディー――辻邦生『眞晝の海への旅』 を読む」は、一九七〇年代前半に文芸誌に連載された辻の海洋冒険小説が、一九六〇年代末から七〇年代初めに連続的に起こった過激派学生(ニセ「左翼」暴力集団)運動における一連の出来事のパロディーではないかという論を展開した。
評論家自身が独自の主題を切り拓いて論じたものも含めて、小説がその時代を生きるとは何かを問うことで成立するなら、その作品への批評を通じて、現代の危機的状況を照らし出し、明日の文学はいかにあるべきかに言及することが批評に本来的に求められている。この意味からの評論活動の更なる前進を呼びかけたい。
「注目作を読む」には、川和田恵真『マイスモールランド』・中島京子『やさしい猫』(和田逸夫)、佐伯一麦『アスベストス』(久野通広)、全成太『二度目の自画像』(松木新)の作品論が載った。
「長編完結作を読む」では、橘あおい『小夜啼鳥に捧ぐ』(久野通広)、和田逸夫『ウィングウィング』(馬場雅史)、中嶋祥子「非正規のうた」(井上文夫)、青木陽子「星と風のこよみ」(馬場徹)が、それぞれ論じられた。
なかむらみのると平瀬誠一の追悼号が組まれた。なかむらみのるについては、松田繁郎「『恩田の人々』と感動する人生」、原健一「『文は人なり』なかむらみのるさんのこと」。平瀬誠一については、風見梢太郎「平瀬さんの人生を映した三つの作品」、 松本喜久夫「教育の愛とロマンを描いた作家」を掲載した。また「私の好きな近・現代文学」欄が新しく設けられ、四編が載った。このような新企画や「時」を得た特集企画によって評論の充実が図られた。
 また第十九回民主文学新人賞では、中井康雅「葉山嘉樹と多喜二――プロレタリア文学の結節点」が、初めて評論部門で受賞した。また、第十二回手塚英孝賞は、松田繁郎「時代をこえたプロレタリア文学の魅力─細井和喜蔵『奴隷』『工場』を読む」が受賞した。
 「民主文学館」では、和田逸夫『ウィングウィング』、苫孝二『渋谷の街を自転車に乗って』、小林昭『未来をみつめた作家たち』の三冊が刊行された。

3 文学会組織の到達点と課題
➀文学会の組織の現状 

文学会は、二十五回大会期で『民主文学』の実売部数が二千七百部台に落ちて以降、最低採算である二千八百部を超えるために、自ら増やすことができる数字として会員・準会員で千人、読者で千四百人を超えることを目指してきた。二十六回大会から二十八大会期までは、その数字には達しないものの二千六百部台を維持していた。しかし、二十九回大会期は過去最低の二千五百部台まで落ち込んでしまっている。
二〇一五年に開いた二十五回大会幹事会報告では、「昨今の組織の推移実態をふまえて、二〇一七年にはどのような財政状況になるかのシミュレーションをおこなってきたが、……厳しい先行きが予測されている。今大会予算においては、新たな削減には踏み込まないものの、大会後の経過を見極め、しかるべき措置を迅速に講じていきたい」と述べていた。そのときに予測した二〇一七年の会員・準会員数はほぼ二〇二三年の現在と等しく、定期読者はむしろ増えているというのが今の到達点である。出版状況を見ると雑誌販売額が十年前の五四%、月刊雑誌にいたっては四五%に減少するなかで、この到達点は全国の会員、準会員の貴重な努力の結果である。
しかしこうした出版関係の市場が縮小することによる用紙・製版代の高騰に加え、ロシアのウクライナ侵略、急激な円高によって、製造費が高騰しており、発行の困難は増している。
前回大会の時点では、「全国の力で、四月末時点で会員三百三十七人、準会員五百二十人、定期読者千二百六十人というところまで到達し、合計では二十八回大会時を上回ることができた」が、四月末の現時点では。会員三百二十八人、準会員四百九十三人、定期読者千百四十一人と大きく後退している。
 この中でも深刻なのは運動の担い手である会員・準会員の減少である。この二年間で、会員は九人、準会員は二十七人減り、総数でも八百人を切りかねないところまで落ち込んでいる。新たな支部を設立、再建をした福島、群馬、長崎などで貴重な前進をしているが、それでも大幅な前進とはならないのが、現在の局面である。組織の高齢化、経済状況の悪化は、常にマイナスの影響を与えている。何もしなければ減少しかない。創造団体として書き手の減少は、運動の根幹に関わる。文学運動の継続のために、すべての都道府県、すべての支部で、あらゆるつながりを生かした取り組みが求められている。

②この二年間の活動と教訓
 新型コロナウイルスの影響のもとで三年あまり、民主主義文学会の活動はかつてない制限を受けてきたが、この二年間の実践のなかで、打開の新たな方向が見えつつある。そこに確信をもって取り組みを強めよう。
*コロナ禍のもとでもオンラインの活用など新しい発展の芽をさらに大きく
長引くコロナ禍のもとで支部や地域での活動が厳しく制限されるなか、前大会以降も幹事会や常任幹事会、専門部会、さらに新たな試みとして会員・準会員・支部合同会議など全会員対象の会議をオンラインで開催する対策をとってきた。
二二年五月の第二十七回全国研究集会は、初めてオンラインを併用して、会場六十人、オンライン参加六十六人の合計百二十六人となり、この十年間で最多の参加者で成功した。オンライン参加数も二十九回大会の五十七人を上回り、確実に広がっている。
また、創作研究会が主催する「第六十五期文学教室」(二二年一月~七月)と「第三十五回土曜講座--民主文学創立五十七年 名作で振り返る・第一期」(同年六月末~十二月半ば)がオンラインで開催され、全国から参加者が一堂に会して文学を学び語り合った。
若い世代の研究集会、毎月行われている作者と読者の会やシニア文学サロンなども、全国からの参加が可能になり、作者も参加して、論議できる貴重な場になっている。
地方で会場に来られなくても参加し顔を見ながら意見交換できるオンライン方式は、コロナ禍による緊急的対応による「怪我の功名」的なメリットではあるが、新しい結びつきをつくりだし、運動の発展の新たな可能性を示している。同時に、オンライン方式は、全員が対面しての話し合いと比較して、議論が深まりにくいことや、打ち解けた交流にはなりにくいなどのデメリットもあることを直視する必要がある。そのことは、文学運動への参加意識の希薄化にもつながりかねず、創造・批評の発展にとって軽視できない問題である。一方で、オンライン対応できない支部も少なくない。そこでは支部例会が開けない困難が続いている。インターネット通信環境を持たない構成員に、会議、研究会等への参加をどう保障していくかは、引き続き課題として残っている。
以上のことにも留意して、今後のコロナ感染の状況次第ではあるが、できる限り対面での参加を追求しつつ、オンラインの併用は、コロナ禍終息後の会議でも効果的に取り入れていく必要がある。
*新支部結成・再建のとりくみ
前大会以降、空白だった群馬県で新支部が結成され、長く活動を休止していた長崎支部が再建された。これを契機に、両県とも新しい広がりが生まれている。群馬県では準会員五人、読者四人、長崎県でも準会員一人、読者五人の純増となっている
東京日野市で新支部(かわせみ)が結成、福島県でも「中通り」地域(福島市・郡山市・白河市など)で支部を設立した。「中通り」では支部結成をめざして、昨年十一月十三日に文芸講演会を開催し、折り込みチラシを見て、二十九人が参加。この取り組み以降「中通り」で準会員五人が増え、支部の誕生が待たれていたという声が上がっている。
佐賀支部では、文芸講演会の案内に支部誌の原稿募集を加えたチラシを折り込み、文芸講演会を行い、オンライン参加を含めて二十一人が参加した。長崎支部では、大浦ふみ子作品で読書会を開催する案内に原稿募集も入れてチラシを配布した。
支部が誕生する過程では必ずそこに準会員、読者が増える。新しい人を支部に誘う機会とするためにも、幹事・常任幹事を講師にした文芸講演会、支部単位のオンライン創作専科などを積極的に検討したい。そのためにも地域で支部の存在を知らせる「支部紹介チラシ」、支部誌の発行に向けた「原稿募集チラシ」などでの宣伝は、民主主義文学会の存在を知らせ、文学愛好者と準会員を拡大する契機になる。また、支部誌で結びついた人たちに、準会員、読者になってもらう働きかけをしていこう。同時に支部活動が軌道に乗るまで、できる限りの援助を幹事会としても行う。
こうした取り組みを全国で進め、民主主義文学会の存在を地域に知らせていこう。原稿募集や支部紹介のチラシは、組織活動強化募金から援助する。
現在、文学会の支部空白県は、栃木が新たな空白となり、福井、滋賀、島根の四県である。また、政令指定都市でも静岡、相模原、広島の三市にはそこを基盤とした支部が存在しないことは、引き続き重大な弱点である。これらの県、市の新支部結成(再建)の追求と共に、条件のあるところでの支部づくりを、文学会として最重要の課題と位置づける。対象地域の条件のあるところで、会員・準会員会議を設定し、そこでは新たな支部結成や支部再建、準会員・読者の拡大の具体的な計画を立てると共に、それを参加者の創造力のレベルアップをはかる企画と一体のものとして取り組むことが大切である。
また、会員の空白県が十県あることは軽視できない。支部での創造・批評活動の中心を担うのが会員である。新たな会員が生まれることは、支部に活気をもたらすし、ひいては支部誌を充実させることにも繋がっていく。準会員と一定数の読者を持ちながら、会員がいないため支部誌を発行できずにいる支部もある。この傾向が拡大すれば文学運動の未来はない。こうした地域から『民主文学』に登場する書き手を生み出すことは、文学運動の継続にとって欠かせない。すべての支部で新たな会員を生み出すことをめざそう。
*例会と『民主文学』を中心とした支部活動の活性化など運動の強化方向
コロナ禍でも対面、オンラインを活用した支部例会開催の努力がされており、例会で文学を語り交流する大切さがあらためて浮き彫りになっている。条件がある支部では、対面との併用も含めてオンライン例会の開催を追求する。例会に参加できない人のためにも支部通信などでの連絡網を強化する。また、ニュースで紙上合評などを行う。新型コロナ感染防止対策を徹底し、消毒、マスクの着用、参加者との距離をとること、換気に心がけ、文学会の場が感染拡大につながらないよう細心の注意を払う。
支部例会の中心は合評であり、文学運動の魅力ともなっている。『民主文学』掲載作品をよく読み合評し、それを自分の創作に活かすことが大事である。合評のあり方も、作者と作品へのリスペクトをもち、率直かつ節度を持った批評にいっそう習熟しよう。
総支部数は九十三支部あるが、高齢化や広域にわたり例会に集まることが難しいなどの支部が少なからず存在する。こうした困難を抱える支部に対して、幹事会、常任幹事会は、「支部アンケート」などで実情をつかみ活性化をはかるために援助を行う。
支部の困難を打開し、活性化をはかるには新しい人を迎えることが不可欠である。文学愛好者には、書くだけでなく読むことを重視して新たに文学運動に参加する人もいる。その一番近しい存在が『民主文学』読者である。同時に、せっかく読者になっても読まれなければやめてしまう。拡大した読者を定着させ、さらに準会員に迎えるうえでも、支部例会に誘って合評を行ったり、周りの読者に呼びかけ読者会を持つなどして文学を語り合い、『民主文学』の面白さと文学運動の魅力を実感できる場をつくることが大事になっている。多様な文学的要求に応えるさまざまな読者会を支部の周りにつくり、自由に文学を語り合う場をつくろう。これは個人でもできる活動である。
支部誌は、国立国会図書館へはもとより、地域の公立図書館へも寄贈しよう。
*世代継承の取り組みと強化方向
文学会の年代構成を見ても、四十代以下の若い世代に準会員を広げることは、文学運動を次代に引き継ぐ上で死活的課題である。
若い世代の文学研究集会は、第九回(二一年八月)には、二十人が参加し、十一作品が提出された。第十回(二二年十一月)は、十六人が参加し、提出された九作品について活発な論議が行われた。
 新たにつくられた若者コミュは、現在二十人となり、若い世代のつながりから参加者に広がりが生まれている。そこから準会員・読者に結びつくよう援助を強める。
 一方、前大会以降、若い世代からの年齢が確認できる準会員増は三人にとどまっている。さらに、迎え入れた有力な若い世代の書き手を含む七人の準会員が文学会を離れたことは看過できない。その背景には、経済的困難や心身の不調など個別の事情がある。文学運動に参加してくる経緯やその人生観、文学観もさまざまであり、文学を学ぶことと、文学運動に共感・協力することが必ずしも一致していない場合がある。受け入れる側は、こうした若い世代の現状を理解し、まず違いを認めあうことが求められている。若い世代が、文学的実績だけでなく個人として尊重され、一緒に文学をやっていくことが楽しい「居場所」と実感できるような文学運動に「改革・更新」していけるかどうかは、世代継承にとって重要課題である。
実際には、支部例会やさまざまな合評会の場で、社会と人間の真実を描く文学とは何かを、実作をとおして共に語り学び合うことが大切である。大阪では、若い世代が中心になっている支部にシニア世代の会員が援助に入っている。そこでは、とくに支部例会開催が困難になったとき、忙しい中でも例会に参加し文学を続けることの大切さを語り、隣接する支部の例会に参加してもらい文学を続けるよう助言し励ましている。例会の合評でも、作品の巧拙でなく、創作意欲を励まし、文学とは何か、どうすれば自分の伝えたいことを表せるのかを、自身でつかめるよう助言することを心懸けている。
若い世代の抱える具体的な困難に寄り添いながら、民主主義文学運動とは何か、そこに参加して書くことの意味を、シニア世代の経験の押しつけにならないよう、的確に伝える努力を探求していきたい。
若い世代の作品を読み、世代を超えて文学の魅力と生き方を語りあえる文学カフェの開催に力を注ぐ。これは全国の支部の協力が不可欠であり、若い世代を迎えて活性化するメリットは支部にとっても大きい。
支部メンバーの高齢化で若い人がいない支部の今後の支部運営が危ぶまれる事態となっている。支部の後継者育成を図るため、各地域、各支部で文学カフェや、民主文学の作品、名作を読む会などを開催していきたい。文学になじみのない人たちに、その魅力を伝えるためにできるだけ、その場で読めるテキストを用意するなど参加しやすい形式を考える。とくに首都圏では文学会事務所を活用し、カフェ形式の「居場所」づくりを探究する。
同時に、若い世代が新しい書き手として、『民主文学』に作品掲載できるよう援助していくことも急務の課題である。具体的には、年一回の研究集会とは別に、若い世代限定の無料オンライン創作専科(毎月)、文学教室の創設、民主主義文学運動の歴史と意義を学ぶ講座などもふくめて、早急に具体化したい。また支部誌などへも積極的に作品投稿を促し、それをブラッシュアップしていくことをめざそう。
ホームページは、若い世代への訴求力を高めるよう、大胆な発想により改善を進めていく。若者向けフリーペーパーを活用して、文学会の活動内容を具体的に知らせていく。
文学フリマは、前大会後参加に広がりを見せている。二一年九月の文学フリマ大阪には、市内の三支部が参加し、『民主文学』や会員の本の販売、若い世代向けの文学会のリーフ、支部紹介チラシを配布した。参加者からは「文学に関心を持つ若い人が多いのに未来を感じた」「民主文学会の存在が認知されている。若い世代に広げられる土壌がある」と感想が出されている。文学フリマ東京(同年十一月)では、『小説作法』や『民主文学』などを販売した。二二年四月の広島への初参加に続き、六月の岩手にも初参加し、九月の大阪、十一月の東京に参加し、さらに今年一月十五日には京都に初参加し、過去最高の五か所の文学フリマに参加した。今後も若い世代を中心とした文学愛好者に民主文学会を知らせる機会として積極的に取り組んでいく。
*シニア層などに広げる可能性と取り組みの具体的方向
シニア文学サロンも六回、「『小夜啼鳥に捧ぐ』と80年代の青年像」(二一年九月、二十九人参加)、「木曽ひかる『曠野の花』が捉えた現代の貧困」(二二年一月、六十一人参加)、「東京教育大学のたたかいが問いかけるもの」(同年五月、五十人参加)、「戦争体験をどう継承するか」(同年八月、四十人参加)、「〝今〟戦争と平和を考える」(同年十一月、十四人参加)、「人間らしい老後の生き方を問う」(二三年一月、五十二人参加)、「一九七〇年前後、学生たちは何を求めたのか」(同年五月、三十八人参加)が開かれた。いずれもオンラインで行われ、参加者が広がっている。参加者百八十五人中、会外の参加者が百二十八人だった。この中で、準会員一人、定期読者を六人増やした。これはシニア世代の関心の高さを示すものであるが、同時にこの間、「シニア」の枠を超えて参加者が広がっている。また、会外の参加者が多いことを踏まえた、テーマ設定、討論の進め方など、名称も含めて今後の発展性をもてるよう検討していく。
五十代、六十代の世代を文学運動に迎えることは、実際の担い手づくりにとって重要である。現在の支部の多くはシニア世代が主体である。その知恵とエネルギーを集め、支部単位でも気軽に文学を語り合える「文学サロン」に取り組もう。
フェイスブック、ツイッターなどSNSの活用も進めたい。ただ、直接会うことのない、オンラインによる結びつきの中で、準会員や読者の拡大につなげるためには、意識的な努力が必要になる。
*「小林多喜二没後90年文学のつどい」について
 二月十一日に「小林多喜二没後90年文学のつどい」を行い、会場百二十五人、オンライン百七十七人、合計三百二人の参加申込みがあった。寄せられた感想は、講演、次世代トークとも好評で、プロレタリア文学の伝統を引き継ぐ流れが、戦争と平和が問われるこの時代に確かに存在している意味を明らかにできた。しかし、Zoomの運用には、大きな課題を残した。教訓を踏まえ抜本的な強化を図る。

③過去最大の危機を迎えている『民主文学』の発行を守るために
文学会の財政は、一般会計の収入(会員会費・準会員会費・加入費)が前期比で大きく落ちている。会員・準会員の減少が反映している。支出ではコロナ禍に伴い、会議費、専門部費の大幅な減少で収支がギリギリ保たれている。出版会計は、定期購読料が前期を維持しているものの、文学会売上、新日本図書で減少している。支出では、製造費が増加しており、実売部数が減っていることで、在庫が増え、保管料も増大している。次期の予算を組むためにも、今大会時点の準会員、読者の到達点に基づき、以下の措置を取らざるをえない。
 製造費の値上げに対して、十六頁の頁減を行い、『民主文学』の定価、会員・準会員の会費は据え置きとする。頁減がそのまま掲載原稿の減にならないように、一頁あたりの字数変更など、レイアウトの変更を行う。また、新人賞などで必要な場合は、年二回を目途に増頁する措置をとることも検討する。製造費がすでに八%上がり、さらに用紙代の値上げが予想されるなかで、こうしたぎりぎりの価格の維持は、準会員と読者の拡大でこそ可能となる。全国の力で、さらに安定的発行採算ラインとしてきた二千八百部を大きく上回ることで頁数の復活をめざしたい。

*薦めたくなる『民主文学』をめざして
 『民主文学』は、権力やタブーを恐れることなく、社会と人間の真実を描く作品を掲載する全国文芸誌として、日本文学全体の発展に寄与している。また、若い世代からシニア世代まで、自由な創作方法で多様な作品が掲載されている、身近な全国文芸誌である。
⑴ 周りの人に薦めたくなるより身近で魅力ある『民主文学』にしよう
身近で魅力ある『民主文学』にするために、何よりも力のこもった読み応えのある作品の投稿を呼びかける。若い世代からの要求の強い掌編小説の投稿も積極的に促していく。「私の好きな近現代文学」への応募も活かして積極的な投稿を働き掛ける。支部誌から『民主文学』への改稿作品の投稿促進、支部での創作力向上の取り組みを強めよう。全国で支部誌の読者は数千人いる。支部誌があることは貴重であり、その条件を活かして地域の書きたい思いを持つ人の結集をはかっていこう。連載企画については、カラーチラシの新聞折り込みをして定期読者を獲得しているが、今後も執筆者の協力も得て効果的な宣伝を行っていきたい。
定期読者の減は、連載期間中購読していた読者や短期読者の中止が大きな割合を占める。連載については、執筆者から期間中の購読のお礼と共に継続購読を訴えて、少なくない読者に継続していただいている。個人的な呼びかけで購読した人も含めて、継続のためには内容のいっそうの充実と共に、支部の例会に誘って感想を語り合うことや、新たに読者会をつくることも大事になる。
⑵ 『民主文学』見本誌、チラシを活用し、担い手をひろげ読者拡大を
気軽に勧められるよう見本誌を活用して、いつでもどこでも『民主文学』を語れるようにしよう。集会などで販売できる場合は、事務局に連絡を(入金はもちろん販売できた分だけで構わない。送料も文学会が負担する)。また、ホームページからの「試し読み」も検討する。
⑶ 条件のあるところで支局づくりをめざす
 現在、支部の周りの『民主文学』読者への配布・集金を行っている支局は、宮城、会津、杉並の三か所、送付は文学会から行い、集金を行っている支局は、埼玉東部、富山、松本の三か所ある。文学会の郵送費や振込手数料が削減されることから、文学会として還元を行っているが、こうした経費面だけでなく、読者と結びつくことで、定着する効果もある。配布・集金の条件があるところでは、支局の設立を検討する。

4 文学運動を次代に引き継ぐために 
いま私たちは、戦争か平和かの大きな歴史的岐路に直面している。さらに文学会の組織は、かつてない危機的状況にあるが、こういう時だからこそ、自らの創造・批評活動によって立ち向かっていこう。
戦後の民主主義文学運動は、日本文学の戦争協力への痛苦の反省を出発点とし、奪われた言論・思想の自由と文学の批判精神を作品の中に取り戻そうとするものだった。
いま、ウクライナ侵略戦争だけでなく、仮想敵国をつくり軍事対軍事の緊張から生じる他国への敵愾心と武力行使が、憎悪の連鎖を増幅させる現実を目の当たりにしている。戦争こそ女性、子どもに対する最大の暴力であり、環境破壊をもたらし、ジェンダー平等に敵対するものである。こうした状況に対し、私たちの文学運動はどのように向き合っていけばよいのだろうか。
宮本百合子は朝鮮戦争の危機に際し、「人類の理性と意志とは、様々な架空の名目、美名で人民同士が互いに殺戮しあうような欺瞞の誇りや愛国心にまどわされていてはならない。戦争で底の底までの被害をうけたのは、どこの国でも、人民男女とその子供たちであった」(「戦争はわたしたちからすべてを奪う」)と訴えた。同時に、戦争は宿命ではなく、「自分では決して死なない一握りの人たちが」起こすものであり、「したがって、より多数の人間の努力で戦争はやめられます」(「願いは一つにまとめて」)と呼びかけ、反戦の世論と運動を激励したことは、今日、あらためて想起すべきだろう。
ここには、人間の理性への信頼と、戦争をとめる「人間の努力」として文学は存在しうるという確信がある。文学は、異論を排除するのでなく、作品世界をとおして他者の心を知り、包摂しうる想像力を育む営みである。そして今日の危機に立ち向かい、平和を希求する人びとの連帯をつくりだす文学運動が求められる。「新たな戦前」とも言うような時代の中で、社会と人間の真実を描く文学の形象によって、平和と民主主義、個人の尊厳とジェンダー平等をもたらす言葉を、多くの人々に届けよう。
そのためにも、自らの批判精神をより高め、文学への姿勢を見つめ直して創造・批評活動に積極的に取り組むと共に、会員・準会員の拡大と『民主文学』の普及、支部活動の活性化によって組織的前進を作りだし、文学運動を次代に引き継ぐために全力を尽くそう。
二〇二五年八月に、日本民主主義文学会は創立六十周年を迎える。この文学運動の歴史と成果を会内外に示す取り組みを成功させ、新たな前進の契機としたい。

 以上

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