弔 辞

 私が松田解子さんと最後にお会いしたのは、今年の四月十八日に港区のホテルで行なわれた「松田解子さんの白寿を祝う会」でした。その会にはおよそ二百三十人を超える人々が、大広間を埋め尽くしておりました。会は各界のスピーチのほか「松田解子資料室のスライド上映」や「女人芸術」に入選した松田解子作詞、山田耕筰作曲「全女性進出行進曲」をふくむミニコンサートそしてバレーの披露など和やかなうちにすすめられ、花束を抱いた松田解子さんは、壇上に立って大きなあの特色のある声でお礼の言葉をのべられましたが、そのときのお姿はいまも目にうかぶようであります。それを一つの契機として「松田解子の会」の結成が計画され会報の第一号がこの十八日に発行されましたばかりのこの時に突然の訃報が伝えられ、私たちの驚きと落胆は大きなものであります。
 私たちはプロレタリア文学運動の積極的な伝統を受け継ぎ、戦後宮本百合子の「歌声よおこれ」に始まった民主主義文学運動をすすめていますが、その私たちにとって松田さんの存在は戦前と戦後の文学運動の歴史をつなぎとめている唯一の生身の存在であるばかりでなく、会最高齢の現役の作家であります。これは私たちにとって大きな誇りであり、また母親のような親しい存在でありました。
 松田さんは、小林多喜二、宮本百合子、本庄陸男、武田麟太郎といった作家同盟の人たちだけでなく、「女人芸術」の長谷川時雨や円地文子などとの文学的交流をもつなど文学創造を高める努力をされ、戦後には「おりん口伝」で第一回多喜二・百合子賞を受賞され、「地底の人々」など優れた作品を生み出し、それはいま刊行中の「自選集全十巻」としてまとめられるような業績をあげてきました。
 こうした文学活動とともに、戦後はこの江古田の地で発足させた共産党細胞の活動や、多くの中国人が虐殺された花岡鉱山事件の遺族への補償を勝ち取る訴訟、早い時期からの松川事件の支援などの活動を精力的におこないましたが、それらのことを松田さんは今年七月に刊行された『松田解子 白寿の行路〜生きて〜たたかって〜愛して〜書いて』において率直かつ闊達に回想しています。
 とくに花岡鉱山では中国人虐殺がおこる以前に朝鮮人十一人、日本人十一人の鉱夫が生きながらに埋められるという事件があったのですが、戦後五年目に松田さんは、秋田県荒川鉱山の炭夫の娘として育った体験を生かして、自らがヘルメットをかぶり坑道に入りました。そのときのことを、松田さんは「民主文学」二〇〇二年一月号に「ある坑道にて」という短篇を書いておりますので、最後にその一部を紹介させていただきます。
 主人公のリエは保安人に導かれて恐ろしい暗黒の坑道を頭を天盤にぶつけたりしながら、ついに二十二人の鉱夫が生き埋めにされた坑道の奥へたどりつきます。そこは無残な死を隠蔽するように、白いコンクリートの壁で固められています。松田さんは次のように書いて作品を締め括っています。
 「手を突いて、その壁面をなぜながらそれが分厚いコンクリートの壁であることをたしかめつつ、リエは身をふるわせて泣いた。声無く。声無く泣くリエの耳に、地底からの声と物音が立ちのぼって来た。その声々は叫んでいた。
 『おーい、おらたちはまだ、生きているだよ。まだ呼吸(いき)して、手にもったタガネとハンマ、石ころやら棒きれでレールたたいて合図しているに、なんで、そうして廃石(がら)やら岩やら土のうやら土やらあらいざらい落としてわざと殺すんだよ、おーい、おーい、……』
 そういう声と、たたかれる鉱車や鉱車レールのカーン、カーンという音の主たち二十二人にリエは声無く詫び、そして語らずにいられなかった」
 松田さんは、この作品について「自分の短篇であれにまさるものはないと思っています」と語っていますが、こうした優れた短篇を九十七歳のご高齢にもめげず発表されたことは、私たちにとって大きな励ましであります。私たちは、作家松田解子の文学の業績をながく伝えることを誓いまして弔辞といたします。
 
  二〇〇四年十二月二十九日
日本民主主義文学会会長 森与志男